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[コメント] 楢山節考(1958/日)

書割の舞台に極彩色、唐突な舞台転換に謡の導入と、いわゆる清順美学がすでに達成されている。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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何でこのような様式を採用したかは、今村版リアリズムの大失敗を観れば判ることだ。辰平の緒方拳にアップで「おっ母あ」と叫ばせるほど、この微妙な作品において無粋な演出はあるまい。高橋貞二の消え去りそうな存在こそ、作品世界を的確に伝えている。

原作については何を書いても不満になるから書かない。映画化されて思うのは、日本映画の描く閉鎖的村落の封建体質は大抵の場合若者が抑圧されていたのであるが、これが逆転されてあること。本作は、原作のカフカ的な報告の文体を的確に採用し、観る人の人となりを鏡のように映し出す透明度と客観性を、件のギミックでもってトリッキーに提供している(『笛吹川』ではこのギミックが逆に感情的になって失敗している)。原始宗教を良しとするか否か、おりんを仏と取るか犠牲者と取るか、人によって解釈は違おう。

田中絹代は冒頭の臼に顔を近づけた処ですでに人間ではなくなっている。この場面の恐ろしい顔を覚えていないと、ただのリアリズムと勘違いしてしまうだろう。歯を折って呻く長い長い背中の演技のときは人間に戻るが、殆どは仏か鬼か、ともかく人間ではない。こんな超絶な演技に対抗するには、大麻でもやらなきゃ仕方がなかったのだろう。

(評価:★5)

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