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[コメント] 少年時代(1990/日)

ガキ大将に従い続ける主人公の『二等兵物語』は、何の批評もなくただ思い出のなかで美化される。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ガキ大将の級長が副級長の姦計によりその座を追われる話で、級長は日帝と、副級長はアメリカと説話論的に重ね合わされている。ガキ大将は貧乏で副級長は金持ち、ガキ大将は権柄ずくで副級長は策略家。主人公の少年は二等兵よろしくガキ大将のいじめに合いつつも、時々優しいこの男を嫌いになれない。そして敗戦と重ね合わせるように級長の座を追われるガキ大将は、運命に粛々と従う敗残兵の姿そのものだ。

という話なんだろう(仮にもしそう解してはいけないとすれば、いったい何の意味のある物語なのか)。しかし、これはいったい何なんだろう。90年代は戦前戦中の把握に「脱イデオロギー」「リアル」が志向され始めた時期であり、これは当時を知る制作者の高齢化により幼少期の回想に惚けが入ったのが大きな要因だと思うのだが、本作はあけすけにこれを語って見せており、係る時代背景の典型となっている。

例えば敗戦後の終盤、主人公の少年の見送りに「若鷲の歌」を歌う同級生たちに、河原崎長一郎(彼の造形は中途半端でいけない)がこの子等はこれしか知らないんだからいいじゃないかと奨励する。この子たちは軍歌と軍国歌謡しか知らないんだと憐れんで彼はそうする訳で、ある種リアルなんだろうがヒステリックでいけないし、これをクライマックスにもってくる意図はヒステリーそのものである。だいたいこの子たち、本当に軍歌しか知らないのか。「ツーレロ節」だって歌っていたじゃないか。

これまでの「イデオロギー的な」戦争批判も残滓という形で残ってはおり、それは戦地へ赴く恋人との別れで号泣して親父に殴られる仙道敦子がもっぱら担うのだが、彼女の造形が痴呆がかっているのも何か気色が悪く座りも悪い。こんなものどうでもいいんだ、と云いたげに見える(なお、仙道の母が絵沢萌子とは素晴らしいキャスティングであり、このふたりメインで観たかった)。その他は、安全地帯の疎開先でグダグダ生きていた記録でしかなく、戦争を描くのに全く不向き。富山は戦中も困窮からこんなに縁遠かったんですよと語っているようにしか見えないのだが、それがどうしたと云うのだろう。

篠田は本作で『瀬戸内少年野球団』の世界からも撤退している、としか見えない。この監督の時代迎合的なアプローチの迷走は甚だしいものがあるが、本作に至って戯画と化した。

(評価:★1)

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