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[コメント] 残菊物語(1939/日)

廊下から登場人物がいなくなってからもしばらく廊下を撮り続けるカットに至ってはもう意味不明。1939年のやりたい放題。
寒山

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







まず、忘れ難いのは序盤の花柳章太郎の菊之助と森赫子のお徳の深夜の馴れ初めだ。この延々横移動される仰角の斜め構図が凄いのだが、そこへ「もう二時頃」なのになぜか風鈴売りが音もなく通りかかかり、菊之助はひとつ買う。この物語はあの風鈴を買ったから始まったのだろう、という意味のない手触りが残る。

長回しは基本、見事な構図に移動後のキャメラがバシバシと収まり続けるが、しかしこれを逸脱する驚異的な長回しが二箇所ある。ひとつは菊之助の実家から出奔の件で、最初は親子四人、隣の座敷に場所を移して兄・母と三人で説得と拒絶が続けられ、菊之助は元の座敷に戻ってフレーム外の父と再び話し、彼もフレームを外れ、キャメラがパンするともう菊之助は飛び出した後で、開いた扉の外の漆黒の闇が映し出される。この呼吸のすごいこと、まるでキャメラが予想外の展開について行けなかったかのようなのだ。

もうひとつはお徳が名古屋の宿で菊之助復帰を懇願する件。最初は随分長い間三人を捉えた構図で会話が続き、当然三人で喋っているのかと思いきや、彼等が突然フレーム外の人物に話しかけたか思うと同時にキャメラがグイと廻り、もうひとりとお徳のふたりの構図に変わる。何かすごい変化球なのだが、お徳が最後通牒を聞くという重要なショットなのであり、これが強烈に印象づけられる。この直前の、廊下から登場人物がいなくなってからもしばらく廊下を撮り続けるカットに至ってはもう意味不明。1939年にもうやりたい放題、ある意味前衛を極めており、映画の可能性を相当吸い尽くしてしまったの感がある。

通常のモンタージュはたった一度だけ使われる。菊之助が舞台に復活する件だ。簾越しに捉えられた菊之助の墨染(小町桜の精)の舞は素人にも判る幽玄に満ちている(演目は「積恋雪関扉」)が、これとカットバックでお徳が成功を祈る姿が捉えられる。このとき観客は始めて森の容姿が確認できるのだ。遠景でのみ人物を捉え続けるという手法、近年では確立されたものだが当時としては箆棒なものだっただろう。またその森のカットが実に神々しい。多分意図的だろう、『裁かるるジャンヌ』のマリア・ファルコネッティが想起させられる。別にミゾグチはモンタージュを否定した訳でなく、物語の極点でのみ使ってその効果を最大限に生かしている。

しかし私的ベストショットは意外と普通のショットだ。舞台裏で舞台成功に喜ぶお徳がふと戸外から響く拍子木の音に気づき、自分の運命を思い出す。これが哀切極まりない。ミゾグチ演出の極点だろう。このように全編を緊迫が包んでいるが、息抜きのユーモアも見逃せない。歌舞伎のメイクのまま日常会話するホノボノ感、地方廻りの舞台を奪う女相撲の面々など爆笑ものだ。女相撲って何するのだろう。

映画が余りに崇高なので物語は通俗を脱している。収束はカフカの「城」の予告されたラストが想起される。それはKが死んだ途端に城から採用通知が届くというもので、本作から義理と人情をひっ剥がせば現れるのはそのような不条理であるだろう。なぜか本頁で名前が欠落しているが水谷浩の美術は絶品。後半の汽車の客車をひとつひとつ訪ね歩く菊之助を反対側から横移動で捉えさせたセットなどシュールの域にある。

ゴダールが好きな監督を三人あげろと問われてミゾグチと三回云ったという伝説は主に本作に基づくものに違いない。ゴダールの奔放なキャメラは本作と照合すると逆に基本に忠実に思われてくる。願わくば続く傑作と呼ばれる田中絹代の『浪花女』が、私が死ぬまでに発見されますように。頑張れフィルム・センター。

(評価:★5)

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