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[コメント] シベールの日曜日(1962/仏)

宮崎勤はこの名作を観ているだろう、という禍々しさも含めての名作
寒山拾得

**ネタバレ注意**
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パトリシア・ゴッジは修道院で名付けられたフランソワーズというキリスト教由来の名前を嫌う。お気に入りの本名のシベール(キュベレー)はギリシャ神話の大地母神。作品はキリスト教的な道徳観以前の、ギリシャ神話の世界観で読み解きなさいと誘っている(日曜日はもちろん休息日だ)。教会の風見鶏奪取もこの文脈で目標とされているし、最後に彼女は「もう名前はない」と云うのはこの世界観が破綻したからだろう。

彼女の造形は『禁じられた遊び』が想起された。ポーレットと同じくシベールも、家族と行き別れになり、お墓を自分で作り、年齢不相応に妖艶になる。この子供の役割を強いられなくなった小さい女の振る舞いに『禁じられた遊び』は不幸を見た。本作はこの点、アンヴィバレントな視点がある。

ハーディ・クリューガーは彼女に、冒頭の殺害したであろうベトナム少女を(記憶喪失だけど無意識に)二重写しにしていたはずだ。この無垢の楽園は彼にとって贖罪でもあり、殺人未遂は脅迫反復でもある。全部が苦悶であったと最期の表情は語っている。挑発する大地母神を前にSMの関係すら発生しているとも見え、この一筋縄では行かないふたりの関係性の曰く云い難さが心に残る。

宮崎勤ら幼女犯罪者の大多数はこの名作を観ているだろう。中盤の公園にロリコンの理想郷を夢見ただろうし、ラストの没落を倒錯的に愛したのだろう。そういう禍々しさが本作にはある。もちろん、共犯関係のない処ではただの阿呆な犯罪でしかない。

いいなと思うのは、三角関係になるニコール・クールセルが公園の二人の幼児性を微笑んで許す件。一方、多様性が断罪される収束は苦いものがあるが、好みとしては別の方向に突き抜けてほしかった。反戦映画の側面もあるだろうが、これではクリューガーが気の毒に過ぎる。

撮影は湖の波紋が反転するショットなど驚異的で、主題に寄り添っているのが素晴らしいのだが、教会の風見鶏奪取などはえらく平凡で肩すかしもある。個人的にはシャッター閉まったあと鍵穴から覗かれるクリューガーと、遊園地での狂乱がいい。ゴッジの名演も二人三脚だっただろう、ドカエも凄いが監督も凄腕だ。

(評価:★4)

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