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[コメント] ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム(2005/米=英)

リベラルからとうに撤退して宣教師になったディランを、リベラルなオルタナ世代が持て余している。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







結局ディランは愛国キリスト教の人なのだ。79年の「ボーン・アゲイン」になぜ人は驚いたのかよく判らない。63年の「戦争の親玉」ですでに武器商人を非難する殺し文句は「キリストはあんたを許しはしない」だったし、「風に吹かれて」の真っ当な解釈は、風とは神意だということだろう。「サーブ・サムバディ」に無宗教のジョン・レノンは「サーブ・ヨアセルフ」で回答、とことん揶揄したが、これへのディランの回答「ロール・オン・ジョン」は物凄い黙示録の世界だった。ライブ・エイドのトリで「アメリカ農民の救済もやろうよ」と内向きな提案をするのも、彼としては一貫していたのだ。最近のコンサートに至ってはドル紙幣にも刷られているデカい眼玉の旗掲げて宣教みたいである。ここ数年の録音はシナトラばかりで、まるで60年代のなどなかったかのようなのだ。

これを見ないで栄光の60年代の革命児としてだけディランを語るのは、必然的にズレてしまっている。リベラルだった60年代でもって自分を語られるのをディランは嫌がっているのだから。若気の至りぐらいに思っているに違いないのである(ノーベル賞授与に参加しなかったのは、リベラルだった頃を主に称賛されているのを知ってやんわり断った、ということだろうと思う)。だからオルタナ世代の面々が敬愛を込めて楽曲を提供したこの映画でも、どこに敬愛を込めてよいのやら判らないような作品になっている。

記憶に残るのはかつてのリベラル仲間ジョーン・バエズの、梯子外されちゃったのよ、という恨めし気な発言(時の経過がこれにユーモアを加えているが、当時は腹立っただろう)だったりする。66年のライブ映像でロック公演を妨害している観客は、要するにアメリカ共産党の連中らしい(CDのライナーで知って、成程と思った)。映画はこれを語らず、どうして袂を分かったのか、という肝心な処がよく判らない。ただ「ミスター・ジョーンズ」による非難があり、最後はアメリカ南部への回帰が歌われるがキリスト教回帰は歌われない。この選択は別にスコセッシの任意ではなく、ノーベル賞委員会はじめ世間一般の通念なのだが、そんなんでいいのか、といつも思う。私はバエズほか地道にリベラルだった人たちのほうにシンパシーを覚える。

もちろん共産党などどうでもいいのだが、ついでにリベラルからも撤退して宣教師になったディランを、リベラルなオルタナ世代は持て余しているし、スコセッシも持て余している。余りにもすごかった60年代のディランを語りたいのは判るが、そこだけ切り取る企画自体に無理があったと云いたい。

(評価:★3)

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