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[コメント] 風立ちぬ(2013/日)

震災の折に低く鳴る地響き、俄雨に低く流れる黒雲、紙飛行機の放り合いと、素晴らしいシークエンスが続く。擁護したくてあれこれ考えたが、上手くいかなかった。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







まず、作者が堀辰雄にどのように敬意を表しているのかが判らない。成人してから亡くなるまで結核患者であり、職業というものにアンビバレントな感情を抱き続けた人であった堀と、この作品のワーカホリックな主人公とどう重なるのか見当がつかない。

「いま事務所でおれがあてがはれてゐる仕事なんぞは此のおれでなくつたつて出来る。そんな誰にだつて出来さうな仕事を除いたら、おれの生活に一體何が残る?」「おれがこれまでに失つたと思つてゐるものだつて、おれは果たしてそれを本氣で求めていたとゐえるか? 菜穂子にしろ、早苗にしろ、それからいま去つて行つたおえふ達にしろ、……」 こう呟いて自殺同然の旅に出る小説「菜穂子」の主人公に、まさか作者は「仕事って愉しいですよ」と伝えたい訳ではあるまい。主人公が亡くなるまで恋人の病床に沿い続ける小説「風立ちぬ」と、仕事のために妻が身を引く本作とは、倫理感において激しく対立している。果たしてどのような敬意が堀に対して示されたのか、不明である。

この作品で面白いのはもっぱら二郎と菜穂子に関わる件であり、一方、二郎の職業に関わる件は総じて退屈、打ち切り間際のプロジェクトXぐらいの出来でしかない。カプローニの登場する幻想は平凡で驚かせてくれないし、黒川や同僚の造形もありきたりだ。例えば黒澤明『一番美しく』の矢口陽子の徹夜作業に感動するように、二郎の仕事ぶりに感動することは難しい。フロイトは遊びの反対は仕事ではなく「現実」だと云ったが、矢口が触れた「現実」に二郎は触れていない。才能に任せて遊んでいるだけに見える。

さらに、軍用機を製作することに対する言い訳は煩い。「死の商人ではない」と友人に云わせるのも何をかいわんやで、もちろん彼等は死の商人、「戦争の親玉」の部下である。それがどのような結果をもたらすのか判っていない技術屋、テクノロジーの暴走ほど厄介なものはない。そんなことを『ナウシカ』の作者が知らない訳はないだろう。だから収束で二郎に詠嘆させる。しかしこれは、いかにも軽い。

ここからは勝手な仮説である。戦後の文芸批評は「関係の絶対性」に目隠しして構築された物語世界を「フォニィ」と呼んだ。宮崎作品は、その無国籍な舞台設定からして典型的なフォニィということになる。想像するに、フォニィなぜ悪い、と宮崎氏はこのリアリズム作品で示そうとしたのではなかっただろうか。現実への関係がどのような形を取ろうとも、そんなものは捨象されてよい、自己実現はそれだけで尊い、と示そうとした(だからこそ、元祖フォニィ(江藤淳「昭和の文人」)堀辰雄が召喚された、と考えればとても辻褄が合う)。

劇中、『会議は踊る』の主題歌が歌われる。リリアン・ハーヴェイの恋のように、夢が戦争に阻まれたとしても、夢はそれだけで尊い。しかし、そんなことを示すのは容易い。もっと困難な題材に挑もう。それは零戦の設計者であった。軍需工場の工場長であった父と、飛行アニメで一家言を成した自らを省みて、その選択は必然だったのかも知れない。二郎の自己実現が「関係の絶対性」(零戦を製作してしまったという事実)を超えて共感を呼ぶ劇作にしようという目論見が、作者にあったと想像する。成し遂げれば、それは画期的なものだっただろう。しかし結果はいかにも軽い、残念なものに終わっている。戦中派の開き直りや言訳を聞かされるよりまし、とも思うが。

ファンは映芸のワースト1を覚悟しておくべきだろう。そんな予感がする。

なお、荒井由実はデビュー当時、その作風から「結核少女」と呼ばれていた。

(評価:★3)

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