[コメント] ツィゴイネルワイゼン(1980/日)
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原田芳雄が亡くなってから、映画はゆっくりとエグみの世界から虚無の世界へと梶を切る。これがいつの間にかそうなっている。冒頭の蟹から始まって門付芸人だの蒟蒻だの発疹だの、エグい描写の連発だ(大部分では「赤」がこれを象徴している)が、自然に静寂の終盤に向かっている。原田がどこで死んだのかも判然としない。公式には砂丘らしき場所で裸で呻いた処なのだろうが、何度も旅立つものだから緩慢に死につつあった印象が強い。
藤田は大谷直子に同じ科白を囁かれる。一度目は、前妻? の大谷に「狐の穴に落ち込んでしまったのだから、もう後戻りはできませんわね」と云われ、「お帰りにならないでください」と胸晒して指パッチンされる。二度目は、娘だけは原田に渡さないなどと訳の判らないことを云う芸者? の大谷に「お帰りにならないでください。もう、後戻りはできませんわねえ」と云われて「あんたは誰だ」と首を締めることになる。いずれも大谷はフレームに出たり入ったりを繰り返し、どっちがとっちなのか判らない。多分どちらもそこにいるのだろう。
判りやすいのは、大谷も大楠道代も心変わりがとても激しいことで、突然に男にしだれかかるのに、次の瞬間には襟元を正しているといった件が何度も繰り返される。大楠は原田との関係でこれが明快で、比較的判り難い大谷のキャラを丁寧に補足している。男どもは被害者だ。女どもの駆け引きに振り回されている。そう思って観れば、訳の判らなさの累積が愉しい喜劇でもある。門付芸人の砂浜での対決はこれが戯画として象徴されているのだろう。大楠の宙に浮いたようなブルジョア奥様の造形は、本作にリアリティを与えて素晴らしい。
原田が藤田に妻を交換しようと持ちかけられて拒否すると返ってくる科白、「狂っているよ。それを承知で君だって付き合ってきたんだろうが」。こういうのが適材適所にポンと置かれるから凄い。先の大谷の科白と併せて、藤田は気がつけばどうしようもなく生のあちら側の仲間入りをしている。これを得心させんがための長尺なのだが、無茶苦茶やっているようでちゃんと着地点が決まっているのも凄い。「人間の遺体から骨だけ取り出すことは可能かね」。あの状況なら、私が藤田でも医師にこう尋ねるだろうが、すでにこれは狂気なのだ。閉鎖的な人間関係は何でも作り上げてしまう。剣呑剣呑。
そしてラストの虚無のなか、娘の草鞋の足跡に残る血の滲んだ赤い古銭。これが訳判らないがゆえに果てしなくエグく、主題が反復される。これは正に、ジジェクが語る分裂病者の意識における無意味な物の氾濫だ。悪夢に出るぞ今晩。
「エグい」という言葉、中原理恵が流行らせたのは81年、本作の翌年だ。「明るい」「暗い」と同じで、馬鹿な高校・大学生だった私たちはまるで自動機械のように、バブルに似合わない事柄に「エグい」とレッテルを貼り、選別し排除し続けた。だからエグさに満ちた本作は、キネ旬80年代ベストワンにもかかわらず、70年代の作品なのだろう。あるいは、オルタナティブは深く静かに潜行を始めたと云うべきか。
本作、小説とは別物で、面白くないのは屋根を転がる石ころのような引用が科白で語られる部分だろう。ラストも大胆に改編されており、小説とは関係のない傑作だと思う。
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