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[コメント] 宗方姉妹(1950/日)

山村聰と凸ちゃんに驚嘆する映画(含原作のネタバレ)
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







原作を読んだのだけど実に詰まらない。映画の役処で云えば田中絹代上原謙高杉早苗による三角関係のおフランスなメロドラマが大半を占め、全然枯れていない笠智衆の紋切型で下らない年寄りの詠嘆が挟まる。山村聰の陰翳に富んだ人柄(小説では喋りまくる)がほとんど唯一面白いのだが短い。狂言回しの凸ちゃんは途中でいなくなる。笠一家は満州帰りであり、笠は公職を剥奪されている。

映画はこの詰まらない原作を詰まらなく模写している。笠、上原、高杉の三人はほとんど人格のないような造形であり、高杉など省けばいいのにと思う。愛してもいない死んだ夫に額づいて一生を終えんとする田中の選択はヒンドゥー教のサティ―みたいなもので、私には一片の美しさも感じられない。

映画は原作にはまだあった廃墟の描写風景を取り去り、満州帰りの事情を省略し、戦災を免れた銀座と京都を舞台とすることで、まるで戦争などなかったような作品になっている。オヅのいつもの方法なのだが、それが何を目指しているのか相変わらずよく判らない。まるで戦争から眼を背けたいという願望を観客と分かち合おうとしているみたいである。

映画で面白いのは山村聰と凸ちゃんの造形で、これが突出している。原作には山村の七連続平手打ちも凸ちゃんのベロだし8回もない。最後まで田中と凸ちゃんを比較してメリハリをつけているのも映画のオリジナルである。

山村の狂気はすごい。眼帯の怖さは強烈で(『東京暮色』の原節子でも反復された)、平手打ちの構図は理想的に決まっており、上原の宿を襲う際の禍々しさも格別。家に猫が何匹も徘徊して猫屋敷と化さんとしている断片は現代的でもある。土砂降りの居酒屋でオヅとしては例外的にキャメラに背中を向け続ける山村もまた実に怖い。千石規子の女将も登場してクロサワに近い気もするが、『東京の宿』などの剣呑も思い出される処。社会的背景を略した造形はここでは効いているのであり、ダムの仕事が決まったと云いながら死んでしまうのだが、気が触れていたのじゃないかと思わされる。

本作演出持のオヅはささくれ立っていたらしい。凸ちゃんはオヅに無理難題云われる田中を気の毒がり、あんなに厭なら使わなきゃいいのにと書いている(オヅと親しかった凸ちゃんがオヅを悪く云うのは珍しい)。このささくれ立ち方は山村造形への感情移入ではなかったのだろうか。客観的な相関物を欠いたまま、ただ抽象的に苛立つ中年男を描きたかったのじゃないかと想像する。それは異常なほど成功している。

本作の凸ちゃんは芸達者のショーケースみたいで、何しても上手いのだが全体として見ればその造形は振幅が激し過ぎるだろう。ベロを合計8回出し、上原との会話を第三者的にアナウンスするギャグ(これ、活動弁士の口真似なのだ。凸ちゃんは活弁だった義母の芸名をそのまま貰っているのだから、高峰秀子が高峰秀子の物真似をしている具合だ)は無茶苦茶面白いのだが、同じ彼女が家庭では不愉快を隠さず、山村の狂気に感染して、バーで並んでグラスを壁に投げつけ割り続ける本作のベストショットも担わされる(これらも原作にはない)。

戦前の桑野通子や後の岡田茉利子のように、コメディエンヌとして登場したらその役割をはみ出さないのが定跡と判っていて(この定跡はオヅが松竹蒲田とともに作り上げたものだ)、あえてオヅは物語を破綻させている。こう云いたいのではないだろうか。「新しい」女である凸ちゃんは、ひとつの役割だけを担って生きて行くことなどできない。多重人格者としての振る舞いを強いられるのだと。

(評価:★4)

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