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[コメント] ダンボ(1941/米)

ディズニー・クラシックらしい楽曲と奇想アクションの融合、鉄格子越しにつなぐお鼻(手)のぬくもりの切なさ、ダンボの愛らしさを堪能するにとどまらない。「マイノリティ」と「マジョリティ」の関係性を痛罵する風刺が心地いい。「嫌われ者」であるネズミやカラスのノリノリな「黒人音楽」がキーになるあたりが時代性を捉えてもいて痛快。
DSCH

**ネタバレ注意**
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華美な衣装をつけ、飽食で肥え太り、自らを「誇り高き種族」と呼ぶ象たち。「マジョリティ」であることを誇示する彼らは、子象と母ジャンボに対し、常に「数」で勝ろうと立ち回る。「マジョリティ」としての最大の暴力は、いわゆる村八分が分かりやすいが、最も注目すべきなのは「烙印」としての「名付け」だ。母が与えようとした「ジャンボ・ジュニア」という名を、マジョリティと身体的な特徴が違うという理由だけで「マヌケ=ダンボ」という名前にすり替える。「白人」が「黒人」「ニガー」と蔑称を用いたのと同じ事だ。同じ生き物であるものが、「欠点」を捏造して優位に立とうとする、卑小だが深刻な暴力性。

身体的な特徴から「マヌケ」と名付けられた子象は、ピエロ=慰み者にされる。その様は「奴隷」を容易に想起させる。子を守るために暴れた母が狂象としてつながれる鎖にはただ事でない重みがある。(目が『風の谷のナウシカ』に登場する王蟲の攻撃色のような赤に染まるのも痛々しい)

子象に同情し、彼を虐げるものに一泡吹かせてやろうと立ち回るのが、これまた一般に「忌み嫌われる」ネズミやカラスであるところがいい。カラスの出で立ちは、どこか20世紀初期の「黒人」たちを彷彿とさせ、彼らが子象を鼓舞するためにノリノリで歌いまくる楽曲(見事な連携!)はゴスペルやブルースの影響が認められ、ファンクの萌芽も感じられる。それはそのまま「黒人音楽」だ。本作が製作されたのは1941年とのことだが、まだまだマーティン・ルーサー・キングのワシントン大行進までは遠いこの時期、音楽によって白人社会に「認められ」、渡り歩いた音楽家達の姿に重なる。彼らが「ダンボ」に心を寄せるという筋立てと楽曲に説得力があるのだ。適切な「動物配置」だと思う。

「欠点」を捏造し、子象をピエロとして踊らせた象や人間達は、まさにその「欠点」が「欠点」でないことを暴かれたことでしっぺがえしをくらい、最終的には彼ら自身がピエロとして踊らされることになる。しかし、マジョリティとして振る舞う象たちも人間たちの駒であり、象たちをこき使う人間達もまた、序盤にサーカス設営時に労働者の歌が合唱されることからわかるように貧しい階級であり、客寄せのために出し物を過激にエスカレートさせていたのである。作り手の風刺の眼差しは、劇中の象たちや人間達ではなく、これを観る私たちに向けられているのではないか。マジョリティやマイノリティを「捏造」しているのは誰か、ということ。

「マジョリティ」に名付けられた「ダンボ=マヌケ」という名を、映画が、そして子象が捨て去ることはない(ダンボがスターとなってからも、サーカスの列車には「ダンボ」の名がペイントされている)。それは、歴史の刻印として、「マイノリティ」から「マジョリティ」へのあかるい「復讐」の証しのようでもある。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)りかちゅ[*]

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