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[コメント] フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法(2017/米)

塗りたくられたペンキや建物の装飾、ジャム、シロップ、スプライト・・・これらが象徴する「甘さ」が、希望を偽装している。希望は嘘をつくことがあるが、絶望は嘘をつかない。でも、やはり嘘に縋らざるを得ないではないか。世界は偉人の水準で生きるわけにはいかないから(押井守)。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







嘘を嘘として受け入れ、刹那の「甘み」付けに勤しむ大人達。既に絶望を通り過ぎた人達で、だからといって無痛だとか無感覚とか逞しいということではない。偉人ではないから。こう生きざるを得ない、与えられるものが嘘しかなくても、刹那のものでも、与えられるだけのものを与えるしかない。(これはわかる。だから、私はディズニーリゾートも否定しない。こんなハードモードでは全然ないが。映画も否定していないと思う。悪いのは貧困。)

これを踏まえたデフォーがいいのは言わずもがなという感じなのだが、 終盤の無銭飲食の段で、デザートを貪るキンバリーを頬杖ついて眺めてビネイトが見せる表情が凄い。思い出したのは手塚治虫の『どろろ』で、どろろの母が施しの粥を受ける碗がなく、素手の碗でこれを受け、どろろに焼けただれた手の碗から粥を飲ませる際の母の表情である(このあと極寒の雪原で客死)。 安らかに微笑むのだ。こんなこと可能だろうかと思いながら、訳の分からない説得力があって印象に残ったのだが、それと同じものを感じた。母は神秘だ。

一方、キンバリーは絶望を知る。絶望も希望も知らないのも一種の強さで、絶望と希望が何かを知った瞬間に人は弱くなる。キンバリーのタガが外れたような泣き顔に胸を揺さぶられる。しかし、本来ここから始まるのだ。ラストの疾走はあらゆる可能性を示しており、重層的で素晴らしいシーンになっている。私の受け取り方としては、城へ向けて走る二人は、嘘を従容として受け入れる人びとにはことごとく背を向けていることから、嘘をつかない絶望から始める力強さに向かうという解釈であった。

(老木のシーンに違和感を覚えたのは私も同じ。倒れても生きてるから好き、の台詞はラスト以降のキンバリーに相応しいと思う。)

(些末なことだが、演出としては監督本人が行う編集が良かった。ポップ過ぎるきらいもあるが、サクサクと切り取られる場面が、後戻りのきかない刹那感を醸している。そして対比されるラストの長回し。()

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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