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[コメント] この世界の片隅に(2016/日)

ある映画で、「風はまだ吹いているか、少年よ」と彼岸の男は問いかけ、「はい、まだ吹いています」と此岸の少年は答えた。その、吹き続ける風に乗って、たんぽぽの綿毛は居場所を見つける。喜びと、悶えるような苦しみと虚しさを抱えながら、白昼夢のような光と記憶の断片で織り成された世界で、風はやまないのだ。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







反復の物語である。炊事、洗濯、掃除、登下校、裁縫、買い出し。反復こそが日常であると告げられる。あたりまえのことで怒り、あたりまえのことで喜び、悲しむ。それが、「ふつうであるべきこと」と告げられる。

だとすれば、反復される空襲はどうか。再三挿入される爆撃の記録のように、また、「空襲、飽きたあ」とはるみちゃんに言わしめるように、その非日常は日常化し、「ふつうのこと」は非日常化していく。非日常として過ぎ去った記憶の断片は光と優しさの中に霞んでいる。まったく「あたりまえ」ではない、あたかも奇跡であったかのように(これを語りたいがための、このアニメ表現なのだろう)。

奇跡というか、白昼夢のようなのだ。原作を読んでいないのだが、りんさんという娼婦は本当に存在したのだろうか。彼女が語るスイカの思い出と、すずさんが座敷わらしにスイカをあげたというエピソードがリンクしてしまったり、妹に瓜二つということもあり、狐につままれたような気にさせられる。思えば、すずさんは、はるみちゃんですら、その目で近親者の死を見届けていない。夢のようにあらわれ、夢のように消えていってしまう。 むしろ夢であればよかったのに、それは失くした右手の痛みの現実とともに、日常としてすずさんを苛む。行かなかった道は白昼夢のようなもの、でも、選び取られた道は自分の背後にたしかにあって、それが夢のように思えたとしても、そしてそれが喜びであったか苦しみであったかに関わらず、現実として「継続」する。喜びも悲しみも抱え込んで、日々は継続される。両輪を飲み込むことを経て、すずさんは生の輪郭を強固にまとう。ふわふわと綿毛のように浮遊するすずさんは、生の重力を獲得する(『空気人形』的構造)。戦争は非日常ではない。「ふつうであるべきこと」は時代に相対化される。全ては日常だ。この日常の延長線上に、私たちがおり、次の日常の創り手を託されている。

寒山さんが指摘されるように、すずさんの美的態度の限界を超えるような事態が描かれ(雲霞のような戦闘機の機影や大和、空中で炸裂しばら撒かれる焼夷弾や照明弾がすず的ビジョンで捉えられる一種のグロテスク)、実際に心の筆を折られる。実際に絵を描かないことは、一つの希望に満ちた諦念として(屋根を破った焼夷弾の火を放置するような自棄的諦念ではなく)、現実を抱きしめる強さを一つの形で提示されているとは私も思う。だが、失くした右手の心ですずさんは絵を描き、現実と幻想のあわいのいきもの達も戻ってくる。映画は退行としてそれを禁じていない。なぜなら風がまだ吹いているからだ。誰かの手を握るための手も残っている。生活こそが、彼女のキャンバスになる。世界はまだ許され、描かれるに値するのだ。すずさんのキャンバスを通じて、映画は「あなたには世界はどう見えていますか?」と問いかけている。

※※※

・道端のお花をおかずとして料理するシーンがありますが、戦争が世界の彩りを奪っていくことの表現としてとても鮮やかだと思いました。 ・公開予定の完全版は「悲しくてやりきれない」のフル歌詞を復習した上で観るべし。もちろん「みぎてのうた」も。 ・一番好きなのは、原爆投下後、すずさんと周作が出会った焼けのこりの橋の上、二人で「ばけもん」を見かけるシーンです。どうしようもない虚しさと喜びの混沌で、世界が許される瞬間、みたいなものに私は滅茶苦茶に弱いのです。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (7 人)おーい粗茶[*] 週一本[*] ぽんしゅう[*] さず ゑぎ[*] けにろん[*] 寒山拾得[*]

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