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[コメント] ザ・マスター(2012/米)

プロセシングの真贋に監督の興味はない。ポルノを扱った時と同じ優しさだ。猜疑の視線に曝されつつ「始まって(始めて)しまった人生」達の作る「家」の物語。酷薄な画の切り貼りの裏で涙を流しているように見える。『ブギーナイツ』の優しさを『時計じかけのオレンジ』から冷笑を除いた滋味と前作来の鋭い筆致が引き立てる完璧さ。「俺はもはやこう生きていくほかない、お前も生きられるように生きるしかないが、そう生きろ。」
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ブギーナイツ』では「家」で寄り添う人生達を描いてその優しさに打たれたのだが、ホアキンが「家」(コミュニティ)を出て行くというのが『ブギーナイツ』とは決定的に異なるところで、これがまた深みを増した厳しさと優しさの表裏一体で唸らされる。「苦しみは終わらないかもしれない」という諦念と、諦念から生まれる自由。それが必ずしも一面的な消極論として語られないのが良い。これは『マグノリア』の優しさが深化したもので、「中国行きのスロウボート」はあのエイミー・マン以来の「レクイエム」に聴こえる。「苦しみは終わらないかもしれない、でも、いつか、別の肉体においては癒やされるかもしれない、いやいや、そんなことはやはり出鱈目なのだろう、でも、可能性はゼロに限りなく近いにしろ必ずしもゼロではないのだ」という、僕としては非常に良いツボを突いてくるのがこの監督さんの特質。砂で作られた女の裸体、かりそめの肉体の胸に顔を埋めるラストは非常に特殊な希望のありようで、この特殊な希望を持ちうることこそが自由なのであり、映画的な要件として語るべきことなのであろうと思う。

優しさはホアキンだけでなく、自らのメソッドへの疑念に苛まれとらわれるホフマン(『ブギーナイツ』のポルノ王に重なる造形)にも向けられている。どちらかというと真骨頂はこちらだ。解放されたいのは何よりホフマン自身であり、その鍵こそがメソッドに相反する「獣」であるホアキンであっただろうが、彼はそのメソッドによって守らなければならない「家」を創り上げてしまった。後に引けない人生の痛み。監督はホフマンに託して、レクイエムにのせてこう語りかける。

「俺はもはやこう生きていくほかない、お前も生きられるように生きるしかないだろうがが、そう生きろ。」

この映画で泣いた、という話をほとんど聞かないのですが、泣いたわたくしはおかしいのでしょうか。

(ザ・コーズの「第1回世界会議」の会場がアリゾナ州フェニックスであることと、「終わらないかも知れない永遠」=不死鳥とホアキンの姓がフェニックスであることについてどこまで監督が符号させようとしたか知らないが、ホアキンは姓がどうあれ、完璧だと思う。『グラディエーター』といい、屈折した人格に実存の哀しみが潜む役を演じさせたら右に出る者はいない、という水準に達したかもしれない。)

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)袋のうさぎ Orpheus 煽尼采 3819695[*] けにろん[*]

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