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[コメント] 八日目の蝉(2011/日)

男性女性父母血縁という言葉の意味の瓦解を経て、「親」を再構築する小豆島シークエンス以降の「景色」が圧巻。父でありながら父であることが出来なかった男達と、母でありながら母であることが出来なかった女達。彼らが一様になし得ず、希和子がなし得たのは「子」に「景色=幸福な記憶をあたえる」ということ。その「ふつう」の決意の中において、全ての傷ついた女性だけでなく、男性も赦される。「聖なる景色」の映画。泣いた。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







中盤。明らかな撮影トーンの変化がある。前半は驟雨、もしくは曇天。乱雑に散らかされた食卓。無機質な住まい。闇に閉ざされた街。エンジェルホームの清潔だが閉塞した生活。ここに「景色」はない。一転して小豆島に舞台を移してからの撮影は、一貫して「景色」を撮り上げる。この、サスペンスを期待した観客への肩すかしのような「景色」の描写が完璧に効いている。サスペンス描写に傾注しなかったのは完全な模範解答。もちろん主題はサスペンスにはない。以降、「景色」の見え方が確実に変わってくるだろう。

「景色」と簡単に述べたけれども、「景色」とは「幸福な記憶」である(いささか親切すぎる台詞でそれが語られているが、それはそれ)。愛された記憶があってはじめてはじめて未来が、愛するという行為が「イメージ」される。「がらんどう」なのは希和子だけでなく、薫も同じことだった。薫のそれは「景色」の欠如。

「あたえられた景色」=「記憶」を取り戻し、景色をあたえてくれた希和子を「親」として認識したとき、薫もまた母であることを許された。彼女も、彼女だけでなく、全ての男が、女が、「景色をあたえる」、「親として在る」ことが出来る。必要なのは決意と力なのだ。それは劇中の登場人物にいわしめるところの「ふつう」の生活である。その「ふつう」の生活のなかにおいてこそ、全ての男性と女性が赦され、未来(=子)が継がれていく(火送りという象徴的モチーフ)。そこでは男性も女性も否定されていない。薫が母として再誕するラストシーンが、薫という一個人の救済だけにとどまらず、「男性が男性であること」、「女性が女性であること」も赦している。ただ、人は誤る。その「ふつうさ」こそが困難である。「性」の業を背負った希和子から、薫に「赦し」は託される。

母性という怪物、という映画でも、男性蔑視の映画でもない。倫理的な、きわめて「ふつう」な映画だ。その「ふつう」であることの難しさと尊さ。「ふつう」であることこそが聖性を帯びるのだ。

井上真央が素晴らしい。心の底から素晴らしい。ラストの井上真央を、成島出が「天使」として描いていたとしても、私はまったく驚かない。

※ 「記憶」というテーマについては押井さんがモゴモゴ言っていたのが思い出されます。それはそれで大好きなのですが、もはやそれを絡めて語るのはめんどくさいです。

(評価:★5)

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