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[コメント] 白いリボン(2009/独=オーストリア=仏=伊)

「世界のこわれかた」。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「パターナリズム(家父長主義)」、「善導」が生む崩壊の萌芽。反駁は暴力によってしかなされず、しかしおそれのためにひそやかに行われ、ひそやかであるが故に疑心の中で悪意を伝播し、さらに従順と無関心という偽装で覆われる。その嘘と暴力が煮詰まった時、家(イエ)、そして世界は壊れる。醜悪な怪物と化した「父=神」たちのヒエラルキー。その頂点に立つものとは何なのか?

世界が壊れるわけでもあるまいに、という台詞が二回提示されている。異物感のある台詞の反復なので、テーマの一つとして読んでいいだろう。台詞に反して、世界は様々なレベルで崩壊を起こしている。男爵家、牧師、家令、ドクター、小作人。全ての家庭が抑圧的で、女性を蔑視している。それぞれがそれぞれのひずみを抱えているとは言え、父=神の「加護」と「善導」を中心とした権威主義的世界そのものが悪意の温床となり、それを起点として壊れるなどと夢にも思っていない。その父権の傲慢。一つの家が壊れ、一つの村が壊れ、一つの国が壊れ・・・

反駁は一種の自我のめざめというか、「自由への希求」としても見ることができるが、憎悪を根拠にしたそれは暴力という形をとって顕れるしかない。そうして獲得されるのは「危険な自由」である。権威主義の世界が壊れゆくさまの中に、一かけの爽快感も存在しない。それは壊れるだけの、憐れむことすら無駄な、ただ壊れるだけの世界だ。静かな見た目以上にこの世界は壊れている。こどもたちの「つつましい」行儀の所作のおぞましさ。とって代わられる世界に、ひとかけらの希望もない。ハネケの冷ややかな視線はあくまで正しい。

それはエーリッヒ・フロムがファシズムの心理学的起源を明らかにしたとされている「自由からの逃走」で表明した世界観そのままだ。彼によれば人は自分の有機体としての成長と自己実現が阻まれるとき、一種の危機に陥る。この危機は人に対する攻撃性や神経症、サディズムやマゾヒズム、および権威への従属と自己の自由を否定する権威主義に向かうことになるということだ。つまり子から父への憎悪はまた、彼が父となった時の子に対しても権威主義として向けられる。抑圧の暴力が継がれる世界は、いずれ臨界を迎える(ヒトラーの造形も父の抑圧に対する反発が大きな影響を与えていると言われている)。

ハネケに言わせれば、世界など簡単に壊れるのだ。そして、この時代、必然として世界は壊れたのだ。一方で、フロムの世界観には続きがある。つまり「生産的な生活と人間の幸福と成長を願う人道主義的倫理を信奉するとき、人は幸福になれる。自分自身の有機体としての生産性を実現する生活こそが、危険な自由からの逃避を免れる手段」とした。私はこの言葉は軽いし抽象的すぎると思っている。ハネケもそう思っていると感じる。ただ、私がこの物語に救いがあると感じたのは、これが神話的領域に開放されなかったからなのだ(それを否定的にみるけにろんさんの感じ方と逆なのですが)。

この物語を固有の事象に押し込めようとしているものとは思わない。しかし、この物語に反駁することは可能なのだ。論理をなぞったこの物語は、反駁するための物語なのだ。反駁は可能だと信じて、この物語を忌み嫌いつつ生きるしか、ないのである。

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●演出上の注目点としては、エンドクレジットへのフェイドアウトの「間」の長さ。これが一瞬のブラックアウトだったり、或いはフェイドアウトでも、より短いものであればどうだったろうか。静かに、しかし着実に世界を侵食する闇。そういった「間」への配慮の有無こそ、良く出来た映画であるか否かの一つの判断基準になると信じて疑わない。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)jollyjoker chokobo[*] けにろん[*]

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