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[コメント] ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破(2009/日)

世界の中心で「アイ」を叫んだけもの。" I =alone (わたし)"で完結する死でなく、" 相 =You are (not) alone."。 手をつないだ「ふたり」の「愛」で世界を終わらせる。いかに心性の根が病んでいようと、そういった禍々しく破壊的な画を、実は誰もが観たいものなんじゃないだろうか。「アイのビッグ・バン」なんて。無謀で馬鹿げた美しさを、正直なところ「ステキ・・・」としか形容しようがない。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ところが、その「アイ」すらゼエレとネルフの「シナリオ」の中に縛り付けるゲンドウと冬月のアイロニーにげんなりする(げんなりすると言いながら、何となく頷ける要素でもあるのだが)。今作の副題が"You can (not) advance."となっていて、前作が"You are (not) alone."である。この言葉遊びはなかなか面白い。世界の否定に振れるのか肯定に振れるのか。片や肯定、片や否定である。何をもって「進化・前進」とするのか。それを否定するのか肯定するのか。得体の知れない不気味さがある。いよいよ「逃げちゃダメだ」の意味が不明瞭に。カヲルの6号機がサードインパクトを阻む一撃を放つ一瞬のラストカット。初号機に取り込まれたままのシンジとレイ、ってこれは完全に胎内への引き籠もりですからね。いったん世界を終わらせようとしてるわけだし。ゲンドウ、レイ、シンジの会食を結局完遂させないあたりは伏線として生きているとはいえ、嬉々としたクライマックスのカタストロフ描写のキレから推しても、やはり内へ内へ向いていく物語であることには本質的に変わりがないようだ。

一方で、試作5号機を巡る謀略に関連する加持リョウジの「オトナの事情にコドモを巻き込むのはいたたまれないものがあるねえ」という台詞に対置されるマリの「コドモの事情にオトナを巻き込むのは・・・(以下同)」という台詞。マリの第3勢力的な配置はなかなかどうして予断を許さない。ダミープラグの拒絶なども、「物語の回収という不穏」を滲ませる。「補完計画」をいったいどうするつもりなのだろう。もしかして本気で否定するつもりなら、それはそれで観てみたい気もする。(もともと庵野氏がメタな爆弾そのものなので、破綻に期待するという前提からくる「面白がり方」なのだとは思いますが。旧作がなければ面白く感じられる作りではないと思うんですよ。「碇くんがエヴァに乗らなくて済むように・・・!」なんてね)。

外部世界との手触りが希薄だということは前作レビューでも述べたが、今回はある程度モブシーンが挿入されている。使徒の破壊力を目前に怯えるシェルターの民間人描写などもあるが、戦闘シーンを除く、という注意書きが付く。また、破壊されてもニョキニョキと地中から生え出すビル群と、これをバックにした通勤通学ラッシュ描写(「戦時下」という緊張感なく継続される)の非現実感は生の高揚を一切伴わず、依然として庵野世界の希薄感には不気味なものがある。ただし、薬物から「食べ物」に目を向けるレイの描写や、ネルフ本部のモニタをぶち破って使徒が肉迫する描写などは、「現実との対面」というテーマ上ではベタながらも説得的と言える(「食事」と言っても「人工肉」らしいですけどね)。

次第にエヴァに搭乗して「痛みを感じる」ことでしか自己を表現出来なくなっていく子ども達にとっての「現実」とは何なのか。もともと破滅に進むしかない自己設定との死闘。相変わらずバランスがおかしいが、目が離せないものがある。一体何が「サービス、サービスゥ」なのか。こちらを小馬鹿にしているのか、本気なのか、いずれにしても、庵野氏に翻弄されるというのは、意外と気持ちいいものであるようだ。

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● ところで、ザックリとしたカッティングは個人的に私の好みとするところで(乏しいライブラリから類似的なものを無造作に拾うと、『エクソシスト』と北野版『座頭市』が上がってくる)、初号機の切断された腕部から迸る血飛沫(LCL)がゲンドウの半身に叩きつけられるカット(ゲンドウは微動だにしない) を残像として焼き付ける手法などは、なかなかどうして高水準であると思う。

● コミュニーケーション不全だからステロタイプの人間関係しか想定出来ない、という設定の必然とすれば理解できないこともないのだが、童貞妄想シチュにはやはり辟易する。アスカの半裸エプロンとか。声高に面白いと言えない所以である。

● 使徒のコアを突き破ってレイを引きずり出す画から、宮崎駿が好んで用いるモチーフが連想されてくる(蟲から引きずり出されるナウシカ、堕ちた乙事主のコールタール状の体液からアシタカがサンを救い出す等)。旧世紀版の完結後、宮崎から「ゆっくりやすめ」と声をかけられたという庵野が「やすみ」を経てどんな再回答を示すのか。よくよく考えれば、宮崎はナウシカ原作で補完計画に類似する断罪要素を組み込んで、これを否定して黄昏の世界を生きるという回答案を示しており、方向性が逆というだけで、意外なほど二者は似たもの同士であるような気がする(庵野は断罪すべき世界への向き合い方が中途半端であるような気が上述通りするけれども)。そういった意味でも興味が尽きない。

● 獣性の発露によって自己証明に代えるマリの造形はなかなかよい。心の壁を文字通り「喰い破る」なんて、素直にカッチョいい。暴力に明るく陶酔する危うさが現出するアンバランスも、なかなかにエキサイティング。

● 「碇くんが、もう、エヴァに乗らなくていいようにする・・・!」という台詞はなかなかどうして意味深。「エヴァから降りる」ことを子ども達各個の母体からの誕生=外界との和解=成長としてラストに据えるつもりなのだろうか。つまり庵野氏が本当に「エヴァ」から降りる、と。そういうことなのだろうか。

● 文章に「なかなかどうして」が多くなって恐縮なのだが、ラストの情感に呑み込まれた自分を認めたくないことからくる言い訳である。正直なところ、面白かった。悔しいが(なぜ悔しいのか判らないが)認めるしかないだろう。

(評価:★4)

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