[コメント] かぐや姫の物語(2013/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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幼少期、かぐや姫は自然とともに在る。それは画面上でも鳥や動物たちのショットが挿入されることで示されている。また、音響面でも虫の鳴き声が入っていることからその意図がうかがえる。
また、かぐや姫は「運動」する人でもある。彼女の成長は常に泣く、転ぶ、落ちるといった動作とともにあり、捨丸たちと走って遊び回るであろう。
さて、都へ行くとかぐや姫は様々な意匠を施され、その表皮が見えなくなると共に運動することを封じられる。画面上での徹底的なヒロイン殺しである。また、虫たちの羽音や動物たちのショットも同時に封じられていくであろう。
ここで一つの主題、「本物の生」と「偽物の生」が浮かび上がってくる。都での暮らしのなかでかぐや姫は「偽物」の庭で気を紛らわし、5人の男たちは「偽物」の土産を持ってくる。
逆に本物の生は、専ら「運動」によって表現されている。それは宴の最中に狂奔するかぐや姫の姿であり(ここで彼女は衣を脱ぎ捨て表皮を露わにしている)、或いは桜の木の元で回転する姿であり、更には捨丸と唐突に空を飛行する姿である。抑圧された「生」の感情が限界を超えて迸った時、映画は瞬間の奇跡を実現する。
こうしてかぐや姫が「瞬間」を生きることを自覚した後、高畑勲は酷なことに彼女に「罰」を与える。それは、こうして獲得し得た生への感情を再び消し去り、月の都へと帰還させることである。地球の「穢れ」とは運動のことであろうか。非常に残酷な仕打ちではあるが、それ故にラスト、姫が地球を振り返り流す涙に人は動揺するであろう。私はこの涙に「今、この瞬間」を生きることの大切さを観た気がした。限られた時間のなかで精一杯生きること、私が本作の表現に観たのはそういうものである。混迷の時代だからこそ、後悔せずに生きること。これが今「かぐや姫」を作った理由では無いだろうか。
こうして、姫が生まれてから死ぬ(記憶を失う)までで、作品は綺麗に幕を閉じる。まるで一本の映画か、儚い人生のように。
・説明は省略されるか後から理由がやってくる。シーンをまたぐとかぐや姫が既に言葉を覚えている。或いはイノシシ。捨丸との出会いを演出するためのもの。今最も映画らしい映画シナリオを書いている(書ける自由がある)のは、日本ではスタジオジブリであろう。
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