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[コメント] サンタ・サングレ 聖なる血(1989/伊=メキシコ)

「手」によって描かれる異性との補完
山ちゃん

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 男は、基本的に女に支配される。すなわち、母親と一体化していた胎児は、やがて母親から分離し、少年へと成長する。その時期ではまだ母親の元から離れられず、少年は、母親の支配を受ける。しかしながら、やがて、少年は、青年へと成長すると、母親から離れていく。そして、成長した青年は、異性との一体化を求め、異性に支配されていく。ここでいう一体化とは補完とも言い換えられる。なぜなら、異性との一体化である生殖行為とは、女の欠けた部分を男の突き出た部分で補完する行為であるからである。そして、男の自立の第一歩は、このような異性との一体化への希求から始まる、と言える。

 故に男が、自立へ向かうに至って、異性に支配されるだけでなく、異性との補完の主体者であるチンコにも支配されることは必然的である。ところが、本作では、その異性との補完による自立の過程が、チンコではなく「手」を主体として描かれる。故に、チンコ主体の下品さが排除され、本作は余りにも美しく、哀しくもある物語であり、それは、俗世離れした神話のようにも思える。

 フェニックス青年は、異性とのチンコによる補完行為(自立)を「手」により遮断する。すなわち、まず、フェニックス青年は、少年期に父親の不倫行為が発端となり、母親が惨殺されるというトラウマにより、異性との生殖(補完)行為を拒絶する。そして、彼は、本能的な自立(異性との一体化の希求)とトラウマ(母親への一体化の回帰)との葛藤により、生殖行為に変わる新たな補完を構築する。それは、すなわち、母親の欠損した両腕を己の腕で補完し、一体感を得るという母体回帰である。と同時に、母親を奪った異性への怨念が化体したその「手」により、彼の補完形態を邪魔する者(彼を性的に誘惑する者)を排除していき、異性との補完行為を遮断する。

 このような彼の自立を阻害する不健全な補完行為を、彼はかつての幼馴染の聾唖少女アルマによって、克服する。すなわち、母親の亡霊により奪われた彼の手が、彼女の手の「補完」により取り戻される。すなわち、まず、彼女は、母親の亡霊に支配された彼の目の前に、天使の如く現れる。そして、母親に支配された彼の手が、彼女に襲い掛かろうとしても、彼女は、決して怯むことはない。彼女に襲いかかろうとするその彼の手は、かつて、彼と彼女との触れ合いを築いてくれた手であるからだ。すなわち、少年時代、マジックが得意であった彼は、言葉が通じない彼女に対し、口で語らず、例えば、手から小さな果物の実を差し出すという行為等、彼の気持ちは、「手」を手段として伝えられてきたからだ。そして、彼女は、後ずさりしながらも自分の手を挙げる。それは、あたかも彼に手を差し出すかのようである。そしてそれにより、あたかも彼女の手が、母親の亡霊に奪われた彼の手を補完するかの如く、母親の亡霊を消し去ることに成功する。そして、我に返った彼に彼女は、彼の手に付けられたマニキュアを一つ一つ剥がしていき、彼の手を取り戻していく。こうして、彼は彼女との「手」による補完行為によって自立へと踏み出していく。このように本作は、手を主体とする異性との補完が美しく描かれている。そして、この一連の流れは、俗世離れした神話のような美しい話かのように思う。

 しかしながら、私は、ラストにハッと我に返る。外に出ると、幾多の警察が彼を取り巻く。彼は、世間から見れば、殺人鬼なのである。そして、その美しい補完の主体である手によって彼は幾多の女性を葬ってきたのである。そこに哀しさを感じるとともに、聾唖少女アルマとの再会がもう少し早ければ、という思いもよぎる。本作は、異性との補完を描く美しも哀しい物語である。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)たわば ぽんしゅう[*]

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