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[コメント] 極北のナヌーク(1922/米)

最高の映画である。ではどのような映画として最高なのか。すなわち、ドキュメンタリ映画として。家族の映画として。プロフェッショナリズムの映画として。雪原と氷の映画として。地平線の映画として。乗り物の映画として。犬の映画として。聡明な演出に導かれた画面の連鎖が実に快い。
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「出現」の演出がとても面白い。冒頭近くで、どう見ても一人乗り用にしか見えないカヤックの内部からナヌークの家族がぞろぞろと出てくるシーン(最後には犬までもが!)。登場する家族の名を示す字幕の挿入の仕方も含めて、その呼吸はほとんどシュールに接近した荒唐無稽であり、同時代の無声喜劇のノリだ。あるいは朝を迎えてナヌーク一家がイグルーから出てくるシーンや、氷原の呼吸穴から巨大アザラシを引きずり出すシーンも。これらの面白さとは、被写体がその大きさに見合わない小さな穴から出現するという「サイズの不釣り合い」の面白さでもあるが、もともとフレーム内に位置していたはずでありながら観客の目には隠されていたところのものが出現するという「フレームインの驚き」の面白さでもある(云うまでもありませんが、フレーム内に写るものはカットの始まりからフレーム内に写っているか、被写体/カメラの移動によってフレーム外から侵入することが多いものです。映画にとって「扉」や「窓」が重要な細部である理由のひとつもこの問題と関係しています)。「映画」とはとりあえずは「フレーム内に写ったものがすべて」のメディアであるのだから、以上のシーンの面白さとは「映画」の原理的な面白さだと云っても決して大袈裟ではないだろう。

さて、この映画は多くのカットでリハーサルやリテイクを感じさせる。もしこの云い方に語弊がある(否定的に聞こえる)のであれば、「入念な下準備なしには撮れないカット群だ」と云い換えよう。あるいは、「(現在よりもはるかに大きいはずの)機材の制約を感じさせない適切なカットが撮られている」と云ってもよい。分かりやすいのはイグルーの建設シークェンスだろう。どうして縦横ともに数十センチメートルの入口しか持たず、大きく見積もっても直径三メートルに満たないイグルーの内部から撮影を行うことができた(ように見せられた)のか。ありのままの現実に手を加える「入念な下準備」つまり「適切な」演出がそこに認められる。

また誰もが見入るであろう風景撮影の美しさはどうだろうか。風景撮影の美しさとは必然的に「光」の美しさでもあるのだが、じゅうぶんな照明機材を揃えることができたとは思えない状況下での撮影であるのだから、それは多分に「自然光」の美しさであるに違いない。『極北のナヌーク』として私たちが目にするカット群が(質にもばらつきがあったであろうところの)膨大な量の素材から厳選されたものであるということを差し引いても、美しい自然光を捉えうる場所なり時間なりを把握したうえでの撮影であったと考えるのが妥当だろう。それもつまりは広義の演出である。

私が思うに「映画」の最も大きな魅力のひとつとは、その「一回性」である。ナイーヴな云い方をすれば、一回性こそが「奇跡」であり「真実」なのだ。そこにおいては「現実(≒ドキュメンタリ映画)」と「虚構(≒劇映画)」の差異はほとんど問題とならない。演出家の仕事とは、どのようにしてその一回性をフィルムに焼きつけるかに尽きると云ってもよいだろう(クリント・イーストウッドや早撮り・低予算映画の名人たちのようにファーストテイクを重んじることでそれを為そうとする演出家がいる一方で、チャールズ・チャップリンなど「完璧主義」と呼ばれる演出家たちは執拗にリテイクを繰り返すことでそれを目指していたのでしょう。また「私は演出をしない」と云う演出家もいるかもしれませんが―彼/彼女が優秀な演出家であるのならば―それは「狭義の演出をしない」という演出であるはずです)。

極北のナヌーク』もまたすばらしい一回性の映画だ。それについての証明は(私が上に述べてきたことを無視したとしても)ナヌーク一家の感動的な表情を定着させた画面ひとつを挙げれば事足りるだろう。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)ぽんしゅう[*] いちたすに ゑぎ[*]

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