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[コメント] ヤンヤン 夏の想い出(2000/台湾=日)

望むと望まざるとにかかわらず人生は勝手に前に進み、二度と同じ地点には戻れない。それは「映画」も同様であり、三時間弱もの上映時間を持つ『ヤンヤン 夏の想い出』でさえ上映が始まれば劇は不可逆的に前に進行するのみで、いつしか終わりを迎える。ゆえに一瞬間を永遠に留める「写真」の登場に私たちは動揺を覚える。
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そして、これはとても難解な映画だ。それはこの映画の物語が、台詞が、画面が、ある特定の意味に回収されることをかたくなに拒んでいるからだ。私は物語について語ることは不得手なので、ここでは画面に即して述べることにしよう。

一見すればすぐ気づくように、この映画は「ガラスの映り込み」を多用している。本来ならばカメラの後方に位置して私たち観客の目に触れることはない風景がガラスに映りこんでいるのだが、これを単に画面の視覚的な充実という審美的な側面だけからの要請として理解するのは適当ではないだろう。これはカメラレンズの前方には位置していないものをスクリーンに映し出すことによって世界を多面的に捉えようとする方法論であり、「前面しか見ることができないのでは、真実の半分しか分からないのではないだろうか」と妙に大人びたことを云うヤンヤンが「後ろ姿」の写真を撮り集めることと通じている。

つまりエドワード・ヤンはここで「ガラスの映り込み」を利用して「映画」の限界に挑戦しているのだ。「映画」の限界とは、技術的あるいは即物的な面から云えば「カメラはカメラレンズの前にあるものしか撮ることができない」ということなのだが、それを安易に受け容れてしまっている映画は、世界という複雑きわまりないはずのものを一面的に捉えることしかできない。世界を一面的に捉えた映画=「映画」の限界を受け容れている映画=ある特定の意味に回収された映画は、決して難解ではないし、面白くもない。また、ここで「世界」とは、ヤンヤンの言葉を借りれば「真実」と云い換えることもできるだろう

もちろん「映画」の限界に挑戦する方法としてあるのは「ガラスの映り込み」だけではないし、ヤンもそれだけに頼っているわけではない。たとえば、ヤンとは具体的な実践の方法は異にしているが、ジャック・タチも「映画」の限界に挑戦し、世界を多面的に捉えた映画を目指した。タチを民主主義的な映画作家と呼ぶことができるならば、エドワード・ヤンもまたその名にふさわしい稀有の映画人であろう。

(「ガラスの映り込み」といったあるひとつの技法にこだわって論を展開することには作家の業績を矮小化してしまうおそれがあるのですが、「世界を多面的に捉える」などといった観念的達成は具体的な技法を通じてはじめて成されるものであり、またエドワード・ヤンはそれに成功した作家だと思いましたので、あえてその具体的な技法の一例としての「ガラスの映り込み」に焦点を絞った述べ方をさせていただきました)

(評価:★4)

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