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[コメント] 丹下左膳餘話 百萬両の壷(1935/日)

万人に愛される親しみやすさと巨視的にも微視的にも緻密な構成美を誇る最幸の親馬鹿映画。一般に「逆手の話術」と呼ばれる技法は台詞設計の妙である以上に、山中が「カッティング」の秘める可能性を知悉していた証左として理解したい。省略的に場面を割るカッティングによって現出する、美しき「溺愛」の情景。
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**ネタバレ注意**
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各シーンの連関が完璧だ。一例を挙げれば、ちょび安が家出をする場面。彼は大河内傳次郎喜代三に宛てて「おぢさん、おばさん、けんくわしないでください。さようなら」というなんとも涙を誘う健気な「書置き」を残していくが、それはただちに大河内と喜代三の「寺子屋か道場か」の云い合いと、それに続くちょび安の達筆ぶりに目を細めるふたりの情景―幸福だった時間の記憶を観客のうちに呼び起こす。したがって、ここはまず脚本の三村伸太郎を誉むべきところであるのだが、そこにおいてあのように「餅」を撮ってみせるという時間演出があること、それがこの映画がウェルメイドを超越した傑作となりえた由であり、山中の天才性の刻印だ。

また、大河内の身ごなしと声音には心の底から驚愕する。本当に天才的なコメディ・センス。唯一無二のアクションの個性。あの道場破りのシーンはたとえ山中であっても大河内以外の俳優では撮ることができなかっただろう(もちろん、山中にしても大変なアクション演出の名人でした。それは『河内山宗俊』の終盤シーンを思い返せばじゅうぶんに明らかなことでしょう)。

さて、私たちに遺された三篇の山中貞雄監督作の優劣を決することなどほとんど不可能だけれども、こと台詞の冴えに関しては『丹下左膳餘話 百萬両の壷』が一番であると云ってみたい。ここでも一例だけ挙げることにする。沢村國太郎が大河内の道場破りに恐れをなして試合の支度を渋るシーン、妻の花井蘭子は「あのような乱暴者をこのままにしておいたらご先祖様に申し訳が立たない」と沢村を促す。無理矢理に装束を整えられながら、沢村はそこで一言「そこもあるな」と呟く。私は毎度毎度ここで爆笑してしまう。これが「それもあるな」であったらそこまで笑うことはない。「そこもあるな」である。よくこんな絶妙の台詞が思いついたなと吃驚もする(*)。その功績が三村のものか山中のものか、はたまた沢村のものなのかを私は知らないが、これもまた天才的に繊細な仕事だと思う。

(*)ともに指示語(指示代名詞)である「それ」と「そこ」ではいかなる点が異なるのか。簡単かつ私なりに語法的な解説をすれば、「それ」はある事象全体を丸ごとひとつのものとして指し示しているが、「そこ」はある事象全体のうちのある部分を取り上げて指し示している。つまり、「それもあるな」と云った場合の「それ」は、個別的にいくつか存在する「試合をしなくてはならない理由」のうちのひとつを指しており、「そこもあるな」の「そこ」は「試合をしなくてはならない理由」を大きなひとつの全体として捉えたうえでその中の一部分を指している。したがって「それもあるな」と「そこもあるな」のニュアンスの違いとは、前者ではいくつかの「それ」が積み重なった結果として「試合をしなくてはならない」という結論が帰納的に導き出されるが、一方で後者においては「試合をしなくてはならない」ことは既に決定事項(大きなひとつの全体)であり、(花井との会話によって)なぜそれが決定事項なのかについての部分的な確認をさせられている、というものだ。沢村の逃げ場のなさ・立場の小ささ・情けなさをより豊かに表現しているのは「それもあるな」ではなく「そこもあるな」である。

(評価:★5)

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