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[コメント] 火口のふたり(2019/日)

柄本佑は飄々とした振舞いの内に暴力や自壊の危うさを漂わせて適材。堂々とした瀧内公美も佳い。堂々とは、脱衣を含む演じぶりが、という以前に骨格が、である。やはり(役柄に依存し、撮り方にも大きく左右されるのは当然にせよ)画面に君臨すべき主演女優にはある程度以上のサイズが伴っていてほしい。
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**ネタバレ注意**
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しかしたとえば、私は幾年だか前に安藤サクラさんを間近で拝見する機会を得たのだけれども、スクリーンを介して育んできた印象に較べ、目の当たりにした彼女は意想外なほどに小柄で華奢であった。どうも優れた俳優は画面上の自身のサイズ感も自在に操作しうるのかもしらない。

さて、存外に軽く、明るく、さわやかで、ふんだんに笑いも含んだ映画であったのは、原作小説との相違点から云えば、舞台地と季節の変更および主人公男女の若年化(さらには柄本・瀧内の演技者的パーソナリティ)に主因があるだろう。冬の福岡が夏の秋田へと移し替えられ、「賢ちゃん」と「直子」はともに五〜一〇歳ほど年若になっている。これらは西馬音内盆踊りを物語に組み込むため、また原作の年齢設定に沿うキャスティングが叶わなかったための変更であるらしく、ゆえにこの明朗感は荒井晴彦からすれば必ずしも意図しない副産物だったのかもしらないが、ともあれ『火口のふたり』が実らせた最も麗しい成果にちがいない。また、カタストロフに直面した人々の虚飾なき営為から立ち上る爽快のムードは、戦争を材に取った坂口安吾の著作(たとえば『堕落論』)に通ずるものを感じる。荒井のフィルモグラフィに『戦争と一人の女』があったことを思い返せば、あながち筋違いの所感でもないだろう。

ただし、カタストロフと云ったが、巻末の演出はここで「富士山の噴火に見舞われた」という解釈のみを許すものではない。膣内射精と噴火らしき音が重ねられ、蜷川みほの手になる「富士山の噴火を描いた絵画」のストップモーションがラストカットを担うに過ぎない(下村陽子の歌声も「とっても気持ちいい」と告げるだけだ)。またこれは、ひとり柄本が美術館を訪れた中盤のシーンにも飾られていたのだから、あるいは精を放った瞬間の彼が不意にこの絵画を思い起こしたということを表しているだけやもしれない。結末は思いのほか精密に曖昧である。

ところで話頭を転じて、これは「卓子」の映画であると云ってみよう。性と食の営みの描写を丹念に積み重ねることで「人間」あるいは「人間の生」を描こうという目論見は、ことさらに異論があるでもないがいかにも文学的というか、少しく真っ当に過ぎる(俗に「三大欲求」と称される睡眠を撮ることも忘れられていない)。それを「映画」に昇華する働きこそがすなわち「演出」と呼ばれている何かのはずだ。そこで卓子である。瀧内の新居に設えられた卓子の上で、二度の食事が、そして二度目の性交が演じられる。『火口のふたり』において卓子とはまずもって生の場である。

他方、この映画は生とともにやはり死も描いていたのではなかったか。死の気配、あるいは生の陰画としての死、もしくは生の先に待ち構える死、いずれの解釈と表現が妥当であるかはさて措くにしても、ここで死と最も強く結びついたイメージが「富士山の火口」であることは論を俟たないだろう。その異様なる富士山火口の像を焼きつけた巨大ポスターが広げられ、垂直に見下ろされるのもまた件の卓子においてであった。あたかも卓子が火口そのものと化したかのごとき画面である(ポスターが巻き癖にしたがってくるくる丸まっていくのも、唖然とする柄本と響き合った好演出だ)。『火口のふたり』にあっては、卓子の上でこそ生と死は等しく戯れを演ずる。生と死の饗宴としての『火口のふたり』はつまるところ卓子に収束する。

(評価:★4)

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