[コメント] ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち(2016/米)
しかしながら、たとえばこの映画を「ティム・バートンの『X−MEN』」とだけ云って諒としては、いささか脚本家の仕事を軽く見すぎたことになるだろう。少なくとも同程度にこれは「ジェーン・ゴールドマンによるティム・バートン映画」である(※)。ペキュリアー・チルドレンの多くにとって、彼らの異能は自在に制御可能の「能力」という以上に、発現状態が常であるところの「性質」と称んだほうが実態に即している(たとえば激軽娘エラ・パーネルは超重靴によって、熱手嬢ローレン・マクロスティは手袋によって、自らの性質をようよう抑え込んで日常生活を送るでしょう)。このあたりの趣向は(原作に負うところが大きいのは当然としても)『X−MEN』風設定のいかにもバートンライクな仕立て直しだ。
(※)すこぶる大雑把な分類だが、基本的に脚本を書かない(=脚本にクレジットされない。もちろん多かれ少なかれ口を挟みはするでしょうが)点で、バートンはスティーヴン・スピルバーグ/マーティン・スコセッシ/クリント・イーストウッド型の映画作家であり、映画史を俯瞰して云うならば、むしろハリウッドの主流派に属する演出職人である。
ブリュノ・デルボネルの撮影は『ダーク・シャドウ』的「陰」と『ビッグ・アイズ』的「陽」の画面を大過なく往来するなど全篇にわたって優れて見応えを保つが、白眉としては沈没船舶のエモーショナルな浮上ぶりを挙げたい。また、複数のシーンにわたって、ペキュリアー・チルドレンが集合したカットはどういうわけか感動を誘って仕方がない。彼らはペキュリアーであれども必ずしも外面的には畸形性を有さない。見た目の上では大概尋常の少年少女である。このあたりにも却ってバートンのヴィジュアル的冒険を見て取ることができるだろう。
あるいは「眼球」に着目するという視座もありうるかもしれない。『ヴィンセント』から一貫して眼球はバートン的デザインの枢要を担ってきたが、眼球の表面積によって特徴づけられる絵画と標題をともにした『ビッグ・アイズ』を経て、『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』はより物語の核心に迫ったところに眼球を据えてみせる。云うまでもなく、ホローガスト(≒ホロコースト)は眼球を貪り食い(=見ることを奪い)、ホローガストを「見ることができる」のがエイサ・バターフィールドの天質である、というのがその謂いだ。
ダニー・エルフマンの不参加には驚きましたが(『アリス・イン・ワンダーランド 時間の旅』とスケジュールが重なってしまったようです)、代わりにマシュー・マージェソンが登用されたのはゴールドマンと同じくマシュー・ヴォーン(マーヴ・フィルムズ)人脈なのでしょうか。いずれにせよ『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』の主要スタッフで九〇年代から皆勤的にバートン作品に関わるのは衣裳コリーン・アトウッドのみとなりました。
冒頭のシーン、エイサくんがバイト先で同級女子に「数学の授業が云々」と声をかけるのは『僕と世界の方程式』への目配せかしら。英米では『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』より一年以上先んじて公開された『僕と世界の方程式』が、我が国ではわずか六日前にならなければ封切られませんでした。まったく憤りを禁じえませんが、それがために却ってよくエイサくんの成長ぶりに目を細めることもでき、先人はこれをして「鰯網で鯨の大功」などと云ったそうです。
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