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[コメント] 悪童日記(2013/独=ハンガリー)

原作がほとんど文体の戦略でもって成り立ったような小説だけに、小説はいかに映画化されるべきかという昔ながらの問題が一入に顕在的だ。要するに、人物や風景が実在感を伴って表象されるのは映画の主要な武器だが、創意工夫もなしに小説『悪童日記』にそれを適用するのは果たして賢明の策だったろうか。
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積極的に不味くはない、なかなかに面白い映画であるということを前提に置いた上で、以上についてもう少し具体的に云うと、小説『悪童日記』においてもっぱら文体によって獲得された特性「実在感の乏しさ」が、映画『悪童日記』では大した熟慮も経ずに毀損されてしまっているのではないか。たとえば、私は『悪童日記』を読んで主人公の双子「ぼくら」を利発そうな東欧系の美少年として想像した。それはアンドラーシュ・ジェーマントラースロー・ジェーマントと懸け離れたものではない。しかし彼らが各場面においてどのような表情を浮かべていたかをありありと思い描くことはおよそ出来なかった。テクストがそのように書かれていたためである。さらに原作の続篇『ふたりの証拠』『第三の嘘』よって明かされる『悪童日記』の位置づけを鑑みれば(これからの読者のために詳しくは記さないが)、この「実在感の乏しさ」は『悪童日記』の生命線であると云っても過言ではない(もっとも、その「位置づけ」なるものは作者アゴタ・クリストフにとっても第一作執筆後に案出された「後づけ」の設定に過ぎないようですし、またその「位置づけ」は必ずしも確定的でないものとして読まれるべく書き進められてはいますが)。

だから、たとえば双子が「痛みに耐える訓練」と称して互いをしばき合うとき、あるいは待ち焦がれていた母親からの便りや贈り物を祖母が詐取しつづけていたと知ったとき、彼らの表情が具体的な実在として眼前のスクリーンに映し出されることに「なるほど彼らはこのときこのような表情をしていたのか」と感じ入るものがあるのは確かだが、それはどこか『悪童日記』的ではない。逆説的な事態だが、作中人物の感情を実在として画面に刻み込むことによって、却って映画は小説『悪童日記』の物語を単なる「出来事の連なり」に貶めてしまっている。

もちろん、次のような立場も大いに尊重されなくてはならないだろう。すなわち「映画と小説は別物である。原作小説の美点を映画が引き継がなければならない義理や義務は微塵もありはしない。映画にとって原作小説は単に『筋の素材を提供するもの』程度の存在に過ぎず、またそれこそが望ましい」という。しかし、それにしては、映画『悪童日記』は「映画ならではの面白さ」についてはそこそこの水準に留まったまま、小説『悪童日記』に忠実であろうとしすぎている。硬質かつ淡白な画面展開は、原作小説のストーリテリングを可能な限り忠実に映画で再現しようと試みた産物だろう。それにもかかわらず、小説における純テクストレヴェルの面白さを映画に置き換えることにかけては無策を誇り、ただ安全運転で筋を追いかけ続ける。云い換えれば、映画『悪童日記』には「映画と小説は別物である/でしかない」という希望/絶望が希薄だ。上に記した「創意工夫もなしに」「大した熟慮も経ずに」という語句はこのような文脈に拠る。

 「映像化困難」とか「不可能」などという文言も実際にはさまざまの意味合いを帯びており、宣伝に際しての常套句にもなっていますが、『悪童日記』におけるその困難性はフランツ・カフカ『変身』と近しいかもしれません。カフカは「虫」を本の表紙や挿絵に描くことを頑として許しませんでしたが、その点でワレーリイ・フォーキン変身』の試みも確かにひとつの見識ではあったのでしょう。

(評価:★3)

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