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[コメント] 無伴奏(2015/日)

矢崎仁司監督作に留まらず、趣向を凝らした陰影を画面に刻み続けてきた石井勲大坂章夫の業績はあらためて讃えられてしかるべきだが、しかしこれはさすがに照明の引き算が過ぎる。少なくともこれがディジタル撮影/映写にとって最もあらまほしきローキイとは思えず、ふとフィルムのグレインが恋われる。
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ここ数作において、池松壮亮の演技がいささか技術に走りすぎているように見受けられるのも少しく気にかかるところだ。他方の成海璃子はわずかに上唇を突き出した表情ひとつで噺の湿度と重量を軽く受け流してしまう。必ずしも物語の調子に囚われない芝居が小気味いい。キャラクタの魅力という点で細かいところを挙げると、制服廃止闘争委員会の長髪娘・仁村紗和が、先輩闘士から受け取った活動資金をラーメン代に横流ししようとするあたりのふざけぶりなどは出色だ。私としてはこのまま三人娘の物語に終始してもらっても満足できたところだが、本筋に絡まない脇のキャラクタが不意に魅力を放ってしまう瞬間こそ「映画」の贅沢である。

ところで、これはひとつに「(身体の)姿勢」の映画と云ってみることもできるだろう。シーンの総和において被写体の姿勢のヴァリエーションを追求している、などと云い換えてもよいが、当然ながら姿勢は一定程度空間によって規定される性質を持つ。枚挙は控えるけれども、たとえば客同士の正対が困難な喫茶店「無伴奏」の客席構造(かつて実在した同名店を可能な限り忠実に再現したそうですが)。あるいは満足に四肢を伸ばすことが許されない茶室の容積。姿勢の不自由を強いる空間の創造を通してシーンを演出するという美術意志は明白だ。

被写体の姿勢がシーンの感情に及ぼす影響に関して、次も付け加えておこう。池松と斎藤工の性的な営みを目撃するシーンの事件性は、いったい何ゆえのものだろうか。もちろん、まず、その出来事そのものがいくばくか事件的であるということは云うまでもない。「秘め事を覗き見る」という状況描写も与っているだろう。しかし、その事件性を視覚的に最もよく象徴するのは「彼らの性交渉と、男女間のそれの(身体構造上必然的に生じる)姿勢的な差異」ではないか。『無伴奏』において「斎藤-遠藤新菜」「池松-成海」「斎藤-池松」の三様の濡れ場が撮られなければならない(省略が許されない)のは、興行上の要請という以上に「姿勢を追求する」演出の必然である。

(評価:★3)

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