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[コメント] R100(2013/日)

彩度を落としてグレインを加えた安直なフィルムライク撮影には微笑を浮かべておくが、どうもこの脚本・演出家は長篇を構想する持久力に恵まれていない。中盤以降に強力なプロットツイストを施さねばならないという強迫観念を捨て、核心の着想だけをじっくり展開して八〇分弱の映画を目指したいところだ。
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**ネタバレ注意**
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漫才など笑演芸でいうところの「ボケ」「ツッコミ」という二職能が、人格にではなく説話機構を構成する二層それぞれの世界観に付託されている。要するに劇中劇それ自体がボケとして、劇中現実それ自体がツッコミとして振舞っているということだが、スプリットスクリーンでも用いない限りボケ的世界とツッコミ的世界は同時に現前することはできない。さらに、両者はともに一定以上の時間的持続を要する「試写と休憩時間」という状況設定のため、通常の漫才よりもはるかに厳密な時間的線条性の制約を被る。したがって、ボケとツッコミは一対一の対応がかなわず、劇中劇で重ねられた諸ボケに対して「休憩時間」である劇中現実において集中的にツッコミを入れる(無言・沈黙を含む)という形式が採用されることになる(私は笑演芸にまったく明るくありませんが、ここで想い起こされる漫才と云えば、村田渚・松丘慎吾のコンビ「鼻エンジン」の試みです)。

むろん、この映画への言及における「ボケ」「ツッコミ」という語は便宜的なラベリングに過ぎない。だからもう少しばかりその輪郭を鮮明にしておこう。ツッコミとは、ボケに対する「立腹」「驚愕」「当惑」「呆然」等の反応に基づいた「指摘」「訂正」「制止」「警告」等の機能・行為、もしくはそれらの複合を指す概念だろう。これらに通底しているのは、ツッコミが(「異常」「過誤」「非-常識」「脱-規範」等を指向するところの)ボケのボケ性を「認識」しているという点だ。この『R100』に照らして云えば、劇中現実は劇中劇のボケ性を認識しているということになる。劇中現実と劇中劇の総合としての映画作品『R100』は自らのボケ性を認識=自覚し、またその認識=自覚を積極的に表明するべく構成されている。

云うまでもないことばかりをくだくだしく書き連ねてしまったが、そもそも映画(あるいは映画における笑い)にツッコミ的なるものは必須の要素なのだろうか。「『映画』とはバスター・キートンである」とする立場の観客としては「否」と答えるしか他に術を持たない。自らのボケ性に対する自覚を表明できることは現実的理智の証ではあるが、それは「映画」が本質的に摩訶不思議であることを忘却した民の性質、すなわち映画的愚鈍とほとんど同義でもあるからだ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ぽんしゅう[*] サイモン64

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