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[コメント] アーティスト(2011/仏)

ジャン・デュジャルダンの監督業進出を報じる新聞見出しには“I'm not a puppet, I'm an artist”とある。それを裏返した「artistであらずばpuppetである」という彼の自己規定に素直に従えば、これは監督作の興行的失敗を被ったpuppetがPeppyとpuppyとともに織り成す「無声両唇破裂音/p/」の物語である。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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あの成犬をpuppy呼ばわりするのはいかにも苦しいが、そこは仔犬でなしに小犬のほうでひとつ諒解いただくとして、それはともかく、まずこれはサイレント映画なのだろうか。劇伴音楽を持っているのだから厳密には「サウンド版」と呼ぶべきだし、ラストシーンのみであるとは云え台詞が発音されることを重く見れば、単に「やけに台詞が少ない映画」でしかない。というかそれこそ『ジャズ・シンガー』とまったく同じ「パートトーキー」である(ところで、このラストシーンで発音された数えるほどの単語の中には“Perfect!!”と“(With) pleasure”が含まれておりましたね)。

もっとも、個々の映画作品をこのようにもっぱらフォーマット面から分類しようとすると無理が出ることは度々あって、予算や技術の制約あるいは美学的な要請から黒白画面とカラー画面が混在する映画は何と呼べばよいのか。というと、先のパートトーキーと同じ理屈から「パートカラー」なんて名称が発明されていて(「総天然色」に対する「天然色」もそうか)、『カラー・オブ・ハート』あたりはこれで対処できるとしても、ワンフレーム内の特定の部位が色づけられた作品、たとえば『笛吹川』や『シンドラーのリスト』は黒白映画なのかパートカラー映画なのか。また「黒白だと思っていたらカラーになる」映画だと思い込んでいた『EUREKA』が「クロマティックB&W」であるなどと云われると目が半開きになってしまう。さらに記憶に新しいところでは『スコット・ピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団』なんかはシーンによってアスペクト比が異なるし、巷間「静止画のみで構成された映画」とされる『ラ・ジュテ』にしても一瞬だけ動くシーンがあるのだから、厳密な分類にはまま困難がつきまとう。

話題が逸れかかってしまったが、私は『アーティスト』の評価に関して、そのフォーマットの(不)徹底の度合い、およびその効果から云々しようとは思わない。もちろん、たとえばこの劇伴音楽はさすがに饒舌に過ぎるだろう。ミシェル・アザナヴィシウスという演出家がどれほどサイレント/サウンド版映画を学んだかは知らないが、これはアキ・カウリスマキのような映画狂でさえ匙加減を誤ったところだ。他にも演出の拙さを挙例することは難しくない。映画史に対する中途半端な目配りに却って反感を抱く観客がいたとして、私もその感情を共有しないではない。しかし、そもそも「トーキー登場によるサイレント映画スターの凋落」という主題こそはサイレント時代の映画が持ちようないものなのだから、サイレント映画と呼びうる要件を満たしていようがいまいが、またサイレント映画に倣った演出の巧拙がどうであろうが、これは一篇の現代映画でしかない。

以上、前置きが長くなってしまったけれども、実のところ私に云えるのは「ベレニス・ベジョがいい」ということだけだ。一九二〇年代から三〇年代にかけて、彼女のような面立ちと体型の女優がハリウッドでスターになれた可能性はおそらく小さかったはずだ。その意味でもこれは歴とした現代映画なのだが、あれよあれよとスターに成り上がって、いかにもいいかげんにダンスがすべてを解決してしまうという映画の楽観は、淡島千景かつヒラリー・スワンクなベジョが請け合っている。

(評価:★4)

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