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[コメント] ゴーストライター(2011/仏=独=英)

配役もロケーションもスリルとユーモアの配分も九分九厘完璧。フィルム・ノワールの構造にヒッチコックの肌触りを加えた作品像はやはり古めかしい印象を与えがちだが、「カー・ナヴィゲーション・システム」など現代的な小道具も有効に活用して不可逆性・自動性を強調した運命論的悲劇を語り切っている。
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**ネタバレ注意**
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この映画は『ゴーストライター』、原題では『The Ghost Writer』と名づけられているが、手近の字引きを紐解いてみると、「代作者」という意味を持つ語は“ghostwriter”という一語として立項されている。歴史的には“ghost+writer”という二語の熟語として生まれたものが、現在では一語として一般化されて“ghostwriter”と表記するのが標準的になったということだろう。ちなみにロバート・ハリスの原作小説は単に“The Ghost”というそうだ。原作の題にわざわざ“writer”を加え、さらにそれを標準的な表記に逆らって分かち書きするというのは、映画が“ghost”と“writer”の連結にこそ物語を見出していることを示唆する。

ピアース・ブロスナンのゴーストライターとして雇われたはずのユアン・マクレガーは頑なに「書かない」。むろん物語の整合性を鑑みれば、彼はブロスナンの自叙伝の執筆を進めているにちがいないはずだが、しかし画面上のマクレガーは徹底して書くことから自らを遠ざけている。たとえば、確かにブロスナンは告発を受けた際に発表する声明の考案をマクレガーに指示するが、マクレガーは決してそれを自らの手では書かず、「口述」したものを書き留めさせる。ペンか、タイプライターか、PCのワープロ・ソフトか、道具を問わず、『ゴーストライター』のマクレガーはむしろ「書かない人」である。

さて、ここで結論を述べると、この映画においては「書く」ことこそが「呪い」であるようだ。マクレガーは書くことを拒否しつづけることで何とか身を保ち、物語上の探偵として振舞うことができる。彼がブロスナンのゴーストであり、また前任者マカラのゴーストであるというのはなるほどその通りかもしれないが、その物云いはいささか確度を欠いている。マクレガーはラストのパーティにおいてオリヴィア・ウィリアムズにまつわる真相を暴いたとき、すなわちマカラが遺した原稿の各章冒頭に置かれた一語ないし数語を連ねて「書いた」とき、あたかも呪いに襲われたかのように、初めて文字通りに「ゴースト」と化す結末を迎える(したがって、云うまでもなく、マカラがゴースト化したのも「書いた」ためである)。

しかし、これは構造の中心に人間を欠いた物語である。書くという行為の否定形である「書かない」を「能動的に」選択して、呪われた結末を回避する余地を果たしてマクレガーは持っていたのか。おそらくそれは難しいだろう。というのは、本当に書くことが呪いであるならば、その呪いは彼が「ラングの妻ルースはCIA工作員である」という旨の文言を書いたときに発動したのではないからだ。映画の序盤、マクレガーが初めてブロスナン邸を訪れたとき、彼はキム・キャトラルから渡された契約書に「サイン」を、すなわち最後まで明かされなかった名を自らの手で「書き」記している。呪い――その逃れることのできない物語の自動性は、そのときすでに「契約」されていた。

(評価:★4)

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