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[コメント] 海炭市叙景(2010/日)

すべての画像が喪失感を指し示している。“何か”が失われてしまった。だが本当に“何か”などというものがかつてあったのか。「確かにあったはずだ」と、映画は古い八ミリフィルムを回しながら静かにタイトル・インする。あまりにも私たちに似すぎた彼らを見守るにつけては、劇の作為性にこそ救われる。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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たとえば第一話の終わり、谷村美月は兄の竹原ピストルが到着するのを日が暮れるまで待ち続ける。物語論とでも呼ぶべきものに照らしても、画面の感情を汲み取っても、全篇の終盤においてそれがはっきりと告げ知らされるのを待たずして、観客はこの時点で彼の死を半ば確信する。そして第五話、西堀滋樹の市電には小林薫と妻の南果歩が、加瀬亮と息子の小山燿が乗っている。市電が画面を横切ろうとするところに、初日の出を迎えにゆく谷村と竹原の後ろ姿が捉えられる。そこにあるのは、今まで無関係に語られてきた海炭市の住民たちが一瞬だけ交錯することがもたらす作劇上の感動などでは断じてない。上映時間にして二時間近くも前に訪れた竹原の死、むろんそれは覆らないものだが、映画は時間を巻き戻して、兄妹にとって最後の苦い幸福な瞬間を甦らせようとする。だから、それは「嘘」だ。時間は巻き戻し可能な何かではない。嘘というのが云い過ぎであるなら、それは劇の「作為」だ。その作為の優しさに私は涙する。その作為の優しさだけが、どん詰まりの現実を慰撫する。それを甘いと云って批判することは、私にはできない。

いわゆる「素人」の出演者のすばらしさについても触れておきたい。西堀や小山、加瀬の妻を演じた東野智美、そして第二話の主人公を務めた中里あき。とりわけ中里が帰ってこないねこの名を呼び続けるシーンはどうだろう。台詞は「ねこの名」を何度も反復するだけだ。彼女はその単純な台詞の繰り返しを演技力によって演じ分けることができない。しかしその痛ましい単調こそが私たちの胸を掻き乱す。

イランやフランスなどがしばしば決して極端に制作予算が乏しいというわけでもなさそうな商業劇映画に素人の俳優を起用し、それが目覚ましい成果を挙げてきたのを横目に見て、どうしてこれが我が国でできないのかと歯がゆい思いを抱えていた観客は私ひとりではないだろう。もちろん素人を大きな役に使うことには外野の観客が想像する以上の困難があるに違いない。また日本においても過去に目を転じれば、あるいは現在にあっても私の知らなかったところでは少なからぬ例があるのかもしらない。ともあれ、この国でもそれが可能であること、そして映画の被写体にとっては演技力と呼ばれるもの以上に「顔」と「身体」こそが重要であることを、『海炭市叙景』は静かに力強く証明する。

(評価:★4)

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