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[コメント] ヒーローショー(2010/日)

二〇一〇年日本のシネスコ暴力映画その一。終わってる感・人生詰んでる感が凄まじい。青年のひとり暮らしの部屋も深夜の地方コンビニも大学の学生食堂もあらゆる風景が行き詰まって息詰まって。脳の線が切れた若者たちの自滅的な暴力連鎖もデッドエンドに吹き溜るばかりでまるで生命のきらめきを反映しない。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







めっぽうハードコアな暴力描写に「覚悟あるいは期待をしていたとはいうものの、まさかこれほどとは」とおののいた、というのがひとまず多くの観客に共通する反応だろう。口への集中攻撃で血を流させるなど、手始めからすでに目を背けたくなるような実践的暴力を直視させる。打撃系の暴力で観客に痛みを感じさせるというのは実はさほど容易なことではないのだが、この映画の暴力は本当に痛い。

共感や同情の余地のあるなしにかかわらず、すべてのキャラクタに一貫性がある。阿部亮平ジェントルが演じた鬼丸兄弟(ものすごい顔! 本気で恐い)にしても勝浦の愚連青年たちにしても、道徳体系が崩壊してはいても字義通りの「無-軌道」ではない。女を寝取られたから暴力をふるう。恐喝する。恐喝されたから待ち伏せて暴行する。といったように、むしろ彼らはきわめて単純明快な行動原理に基づいて生きている。単純すぎるあまり「常識」に生きる私たちにとっては不可解に映るかもしれず、またそれは世を騒がせた実際の事件や世相と接続するものでもあるのだろうが、不謹慎を承知で云えば、その単純明快さこそが「映画」にとって面白いのだ。映画とは「単純さを写すこと」あるいは「単純に写すこと」で複雑さを表現することをもくろむメディアである。

さて、この映画からいっそう救いを奪い、また井筒和幸は本気だなと思わせるのは、これが一〇代ではなく二〇代の物語であるという点だ。もちろん、本来一〇代・二〇代などというものは十進法がもたらした便宜的な区分に過ぎないはずだが(ゆえに法的な成人年齢を見直す議論が起こりもするだろう)、生活実感としてやはりそこには何か見過ごすことのできない差異があるように思われる。仮に『ヒーローショー』を「青春映画」と呼べるとして、「青春の終わりを否応なしに突きつけられた者たちの映画」という意味でのそれ、もっと厳しく(井筒の思惑さえも越えて)云えば「青春なんてとっくに終わってしまった/はじめからなかったことに気づかぬふりをして若さを浪費しつづけてきた者たちの映画」という意味でのそれだろう。だがしかし、若さを浪費しなかった者なんて果たしているのか。むしろ浪費こそが若さの条件なのではないか。だから若い/若かった者としての私たちは『ヒーローショー』を無視することができない。

ところで、福徳秀介が一命を取り留めてのち、後藤淳平と行動をともにして心を開いたような逃げる機会をうかがっているだけのようなシーン、また一方で勝浦の暴行犯たちが次々と因果応報とでも云うべき事態に見舞われてゆくシーンが続く後半部。考え抜いたうえでの構成であろうし、それは成功しているとも云いたい。あるいは井筒はこのダラダラと引き延ばされた時間こそを描き出したかったのかもしれない。それでも前半と後半を橋渡す暴行シーンの緊張感が途切れることなく持続していればとんでもない傑作になっていただろうという思いを私は捨てきれない。次のように云い換えてみよう。ここで暴力という細部は「全体」を凌駕している。一方で、後半の描写のそれぞれは直接に「全体」を構成するためのものだ。ゆえに後半の展開がなければ「全体」たる映画もまた成立しえないのだが、それでも私は突出した細部だけででっち上げられた映画を夢想してしまうのだ。

(評価:★4)

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