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[コメント] マイマイ新子と千年の魔法(2009/日)

まず最も基本的なこととして、表情・所作・発声の演出がよい。たとえば、夜な夜な貴伊子が写真に収まった亡き母親のポーズを模倣する場面。ここでの感動は貴伊子のポーズ→写真の母親のポーズという「カットの順序」に支えられている。これが写真→貴伊子の順であったらこのシーンは失敗していただろう。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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さて、この映画は『マイマイ新子と千年の魔法』と名づけられている。「マイマイ」とは「つむじ」の意であるそうだ。であるからして、額に第二のつむじを有した「新子」という名の少女を主人公に持つこの映画が『マイマイ新子』と題されているのはしごく合点のいく話だ。しかし「千年の魔法」とは何か。むろん劇中でも新子の口から幾度か「千年の魔法」という語は発されるし、タツヨシ父のスキャンダルを耳にした彼女は「千年の魔法は終わった」やら「なくなった」といったことを云う。だがそれでも私には千年の魔法が何かよく分からない。より正確に云えば、分かったようでよく分からない。だから私は、自身の覚えた感動に即して率直に、かつ、物語を読む能力に致命的な欠陥を抱えているという私の個人的不具合を棚上げにしたうえで、千年の魔法とは取りも直さず「映画の魔法」であると云ってみたい。そして、さらに云えば、それは「カットバックの魔法」であると。

ここで「カットバック」の語をして指そうとしているのは、云うまでもなく、映画の後半で新子とタツヨシが「仇討ち」に向かうシーンと、千年前のお姫様が友達を作るシーンが同時並行する箇所である。まず、これほどに哀しくて切実な、しかしどうしようもなく場違いな(滑稽な、と云ってもよい)仇討ちの状況が創出されているという一点を取っても後世まで語り継がれるに違いないと思わせるシーンなのだが、それが千年前のお姫様のシーンとカットバックされる。この千年前のシーンは新子の空想を貴伊子が共有したものとして描かれているとするのが素直な見方かもしれないが、自身の額に生じたマイマイを鏡で確認しようとした途端に貴伊子の顔は消滅してしまい、お姫様のそれに取って代わられる。以降、このシーンで貴伊子(の顔)は二度と登場しない。要するに、「千年前の実際の出来事」と観客に見られることを拒絶しない、曖昧な語り方である。このような空想か現実かすらも判然しない千年前のシーンが、どうしてそれと何の因果関係もないように見える、何の関わり合いもないはずの仇討ちとカットバックされるのか。それは、分からない。しかし、そのような脈絡を欠いたふたつのシーンが「今まさに、並行して起きつつある出来事」として信じられている映画の在り方こそが感動的なのではないか。云い換えれば、それはこの物語に対する演出家の態度だ。ふたつのシーンの間に横たわる距離も、時間も、現実か空想かの区別も、この物語―つまりは、新子・貴伊子・お姫様―にとっては無効であると、映画/演出家は宣言する。私はその清々しさに心を震わせる。だが、そんなことがありうるのは映画だからではないか。そんなことを為しうるのはカットバックのためではないか。だから私はこれを「映画の魔法」「カットバックの魔法」と云いたい。

(評価:★4)

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