[コメント] サブウェイ123 激突(2009/米)
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スコットは警部補ジョン・タトゥーロと市長ジェームズ・ガンドルフィーニを除く脇役には興味がないようだ。ドラマの焦点がタイトに絞られていることは認めるが、ルイス・グズマンや『チェンジリング』で世界中にトラウマを与えたジェイソン・バトラー・ハーナーをあの程度にしか使わなかった点については悪しき贅沢であると云っておきたい。ただし、ガンドルフィーニの俗人・凡人として豊かな造型は買う。
さて、毎度のいいかげんな思いつきにすぎないけれども、「これは『矩形』の映画だ」と云ってみよう。PC・TV・ダイアグラムを表示した運行司令室の巨大モニタ、電車の運転室のフロント・ガラス、あるいは車両そのもの。そもそもこの映画は、おなじみ「コロンビアの女神」が画面全体にではなく、縮小された矩形として画面中央に映し出されて始まる。ここで私たちは、スクリーンもまた(この映画のようにシネマスコープであれ、あるいはヴィスタやアカデミー・スタンダードであれ)矩形であることに思い至る。そして劇中の各「モニタ」が示唆するのは、作中人物はもちろん観客たる私たちでさえ全知の存在ではありえないという(自明ではありながらしばしば忘れがちな)事実だ。矩形とはまさに恣意的に「切り取った」形であり、それを通して見ることができるものは物事のほんの一部でしかない。たとえウェブとTVを介して全国的に(?)事件現場の映像が発信されても、それは事件の解決とは一向に結びつかない。解決はあくまでもデンゼル・ワシントンとトラヴォルタが対峙するときに訪れる。ここで彼らの対峙の/距離的近接の/切り返しのドラマをより一層感動的にしているのは、その直前においてワシントンが迫り来る電車の前を横断することだ。もちろん、ワシントンがそうするのは「電車の通過を待っていてはトラヴォルタに逃げられてしまうから」だが、物語の水準から離れて見たとき、すなわち「矩形」にこだわって見たとき、それはモニタ(という矩形)から解き放たれ、電車(という矩形)を乗り越えたときにはじめてトラヴォルタと真に対峙できる、ということを意味している。ここで「真に」と云ったのは、「いやいや、一〇〇〇万ドル受け渡しの場面で既にふたりは対面を果たしていたじゃないか」という反論に対する予めのエクスキューズのためで、(ここまで私が述べてきた事柄がはなから付会の説であることは免れないのだから敢えてもうひとつこじつければ)その場面が演じられるのは車両内空間というやはり一種の矩形にすぎなかったのではないか。ワシントンは矩形を越えねばならないのだ。
と、自分でもだいぶ呆れてきたから、もう少し穏当な云い方に変えて締めくくろう。すなわち、『サブウェイ123 激突』はどこまでもワシントン-トラヴォルタ間の「距離」のドラマである。
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