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[コメント] サマーウォーズ(2009/日)

各キャラクタへの見せ場の割り振り方(特にカズマがいい)にしてもタイムリミット演出にしても堂に入ったもので感心する。しかし全方位に好感を求める八方美人ぶりが若干気色悪いか。つまり、物語は必ずしも健全とは云えない世界観を持っていながら、出来上がった映画は健全すぎるということ。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







あるいは当世風にナイーヴな作劇とでも云うか。それが最も顕著なのは「敵」の造型である。ここで敵とは、云うまでもなくラブマシーンとかいう名のエーアイのことだが、この敵は「悪」でさえないのだ。

敵が現れ、その敵をやっつける映画はそれこそ無数にあるが、それはなぜか。多くの場合で「悪」でもあるところのその敵をやっつけることに(きわめて広い意味での)「快感」があるからではないか。その快感を得る主体とはもちろん観客である。したがって逆から云えば、観客に快感を与えるため、映画において主人公は敵をやっつける。しかしこれには問題があった。すなわち「いくら敵だからって、そんな問答無用にぶちのめしていいの? そもそもその敵ってそんなに悪い奴なの?」という。ここで問題にされているのは「敵の造型」であり「やっつけ方」である。やっつけ方は派手なほど、徹底しているほど快感の絶対値も大きいが、敵の造型がそれに釣り合わないと、たとえば主人公が小悪党を惨殺したとすると、これはやり過ぎ。観客は却って後ろめたさや罪悪感を抱き、快感は減じてしまう。また敵にも人格があるのだから、たとえそれが強大な悪であったとしても、それをやっつけるときにはそれなりの快感減少要素を覚悟しなくてはならない。それは確かに映画外の問題であるかもしれないが、(ネイティヴ・アメリカンを人格を持たぬ敵に仕立て上げることができた初期西部劇ならいざ知らず)現代映画はこの問題から逃れることはできない。一種の「馬鹿映画」は今でもこの問題から無縁なところに身を落ち着けているように見えるが、これも自ら「馬鹿映画」として振舞うことで一時的に問題の回答を保留する権利を得ているにすぎない。私の見る限りでは、この問題に自覚的かつ明確な回答を示した現代映画として挙げられるのはシルヴェスター・スタローンの『ランボー 最後の戦場』とクリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』の二作である。

さて、翻って『サマーウォーズ』はどうか。ここで敵という役を引き受けているエーアイは人格を持たない。つまり、劇中でも「思想や恨み」で行動しているのではないと言明されているように悪でさえない(そして生命ですらない!)。要するに、どれほど徹底的にやっつけても快感減少要素の生じない「理想的な」敵なのだ。私たちは存分に「やっつける快感」だけを味わうことができる。『サマーウォーズ』が仮想空間を舞台にしたのも、(おそらくテーマ云々以上に、第一義的には)現代においてそのような敵を造型できる唯一の場であるからだろう(『E.T.』や『未知との遭遇』やそれ以前のSF映画においてすでに、私たちは地球外生命体にさえも人格を認めて「友人」となってしまっている)(*)。当世風にナイーヴな作劇とはそのような意味である。したがってそれは同時に非常にアクロバティックな作劇でもある。またこの映画を健全と呼んだのも同じ意味で、やっつけても快感減少要素の生じない(=誰からも文句を云われない。この映画を見て「エーアイかわいそう! 主人公憎し!」と思う観客がいるだろうか?)敵をやっつけるのだから健全きわまりないが、そこまでして健全さにこだわり全方位に好感を求める態度というものにどこか信用が置けない。ここには快感だけがあり、リスクがない。私にとって信用できる映画とは『サマーウォーズ』ではなく、映画内外のリスクを真正面から引き受けつつ「映画」の面白さを貫いていた『ランボー 最後の戦場』であり『グラン・トリノ』なのだ。

(*)それでは、人格さえ持っていなければ「理想的な」敵たりうるのか。とりあえずはそうとも云えるかもしれないが、記憶にも新しいところで『ターミネーター4』のロボットとの戦闘を引き合いにしてもう少し考えてみよう。ここで注意すべきは、たとえ人格を持たぬロボットが相手でも、その「やっつけ方」は主に物理的暴力であったという点だ。映画における暴力はそれ自体で観客に快感と同時に不快をもたらす。コンピュータ・グラフィクス処理が著しく、暴力の「生々しさ」という点では疑問符も付く『ターミネーター4』でも事情の大勢は変わらないだろう。つまり、人格を持たぬ敵に対してであっても、そこに暴力が生じるとき不快=快感減少要素もまた生じる(暴力に快感を覚えてしまうことが不快であったり、不快さ自体が一種の快感でもあったりと、実際の事態はもっと複雑なのですが)。『サマーウォーズ』にも「格闘」が描かれるが、それは「そもそもがアニメーションであること」「その中の仮想空間上の出来事であること」という二重の枠組みの中に収められ、暴力の生々しさは徹底して排除されている。またクライマックスの「やっつけ方」は花札やケンジによる暗号解読(および「よろしくおねがいしま〜す」の一打)であり、これらも暴力とは縁遠い「やっつけ方」をかたちづくっている。すなわちここでも云えるのは、やっつける快感の最大値を保ったまま暴力がもたらす不快=快感減少要素を排除する、というのが『サマーウォーズ』の戦略であるということだ。これもまた異常なまでの健全さへの志向であり、ナイーヴでアクロバティックな作劇だろう。

(評価:★4)

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