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[コメント] 硫黄島からの手紙(2006/米)

「映画」が現実の再現の場に甘んじたことなどかつて一度たりともないのだから、確かに時代考証の面などにいくつかの「間違い」を含んでもいるこの映画に対しては、比類なき空間演出家イーストウッドが硫黄島という特異な空間を舞台にいつもどおり肩の力を抜いて仕上げた傑作にすぎないと云ってみせるのが適当だろう。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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なぜイーストウッドは硫黄島を舞台にした戦争映画を撮ることにしたのか。もちろん、たとえば「戦争の悲惨さを伝えるため」などといった通俗的な理由もあるだろう。しかしそれは「なぜ硫黄島が舞台とされたのか」という問いに対しての答えにはなっていない。どの戦争のどの戦場であろうと悲惨であることに変わりはないのだから。

映画と真摯に向き合えば明らかなはずだが、これは海の映画であり、砂地の映画であり、斜面の映画であり、山の映画であり、洞窟の映画である。イーストウッドがここで海・砂地・斜面・山・洞窟の映画を同時に成立させるという野心的な企てに挑んでいることは明白だろう。硫黄島はそのために選ばれた舞台である(あるいは、硫黄島を「発見」したことでイーストウッドは以上の企てを思いついた、とも云える)。そしてその企ては見事に成功している。『硫黄島からの手紙』を見ることとは、この映画的空間に―つまりは海に、砂地に、斜面に、山に、洞窟に―打ちのめされることであり、戦争映画として第一級のスペクタクルを見せるこの空間-画面が、しかしそれを単に娯楽活劇として消費することを許さない悲しみで染めつくされているということに引き裂かれ、慟哭することではないか。

冒頭部と結末部における「現在の硫黄島」の空間は、戦中シーンのそれと外形的には何ら変わらない。同じ海と砂地と斜面と山と洞窟である。にもかかわらず、その質は甚だしく変化している。そしてラストにおいて、本来は空間を越えるものであるところの「手紙」が、ひとつの空間に留まりながら六〇年の時間を越えて私たちの目の前に現れる。戦争について思考することとは、具体的にはこれらの倒錯について思考することにほかならない。すべての優れた映画がそうであるように、『硫黄島からの手紙』もまた私たちに「具体的に生きること」を突きつけている。

(評価:★5)

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