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[コメント] モーターサイクル・ダイアリーズ(2004/米=独=英=アルゼンチン)

「移動」の演出がよくなされていないという点において私にはこれを「ロード・ムーヴィ」と呼ぶことが躊躇われるのだが、「旅」という語が「移動」とともに「とどまること」という意味も含んでいるのだとすれば、サレスの演出は必ずしも全否定されるべきものではないだろう。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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この映画にあって語られるに足る事柄が生じるのはガエル・ガルシア・ベルナルロドリゴ・デ・ラ・セルナの「移動」ではなく、ある場所に「とどまること」の内においてのようだ。例を挙げだせばきりがないが、彼らは旅に出発して(上映時間にして)数分もしないうちにベルナルの恋人の家にとどまることになるし、終盤においてはまるで旅を忘れたかのごとく療養所にとどまりつづける。バイクの故障による「移動」の中断は彼らに町に「とどまること」を強要し、そこにおいてまた何らかのドラマが繰り広げられることになる。

だから、彼らはむしろ「とどまる」ために「移動」している、と云ってもよい。それが彼らにとっての「旅」なのだ。地名・日付・移動距離がキャプションで表示されることも、「移動」それ自体より「到着」が重要であることを示している。

これがあくまで「とどまること」の映画だというのなら、それはそれでかまわないだろう。しかしサレスは明らかにこれを「旅」の映画として語ろうとしている。そうであるならば、少なくとも「とどまること」と同程度の濃密さで「移動」が演出されなければならなかったはずだ。だが、サレスは、たとえば移動手段がバイクでなければならない(映画的な)必然性を提示することもできていない。乱暴な云い方をすれば、これは「移動」シーンをことごとく削除しても成立してしまう映画なのだ(それは、それだけ「とどまること」をよく描けているということの裏返しでもありますが)。

「移動」の演出をおろそかにしてきたサレスが終盤においてベルナルの川泳ぎという「移動」を力一杯に語ったところで、それは遅すぎるエクスキューズにしかならないし、「とどまること」の映画としての相貌さえも中途半端に崩すことになる。

「移動」を描くことは難しい。「とどまること」を描くよりもはるかに難しいのかもしれない。だが、「移動」を描けている(「移動」の演出がよくなされている)映画は例外なく面白い。

(と、ここで「移動」の演出がよくなされている映画というのを具体的に挙げてみせないのは少し卑怯かもしれませんね。それでは、たとえば『パリ、テキサス』や『友だちのうちはどこ?』における「移動」すなわち「徒歩」はどうでしょう。ヴィム・ヴェンダースアッバス・キアロスタミもまずは「徒歩」を単なる「徒歩」として描こうとしている、ということが云えるのではないでしょうか。「単なる」というのは「端的な」とか「即物的な」という語と置き換えてもかまわないのですが、翻って『モーターサイクル・ダイアリーズ』のウォルター・サレスは「移動」に安直に「意味」を背負わせようとしすぎている、というふうに云えるかもしれません。バイク等での長距離移動に伴う「風景」の身体的理解がベルナル演じるエルネストを成長させ、また革命家として目覚めさせていく、という意味。ここで「風景」とは人々や人々の生活のことも含んでいますが、いずれにせよそのような「意味」は文学的ではありえても映画的ではありえません。もちろん『パリ、テキサス』や『友だちのうちはどこ?』の「移動」にも「意味」はあるかもしれませんが、それはあくまでも即物性から出発し、それぞれの観客の内で醸成される映画的「意味」ではなかったでしょうか)

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)disjunctive[*] 緑雨[*] shiono

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