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[コメント] 武士の一分(2006/日)

なんだか猫背だ。
bravoking

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







公開当時の騒ぎっぷりに、なんとなく辟易しているうちに、結局DVDで観るハメに。 観終わって、やっぱり映画館で観とけばよかった、と後悔。それはなにも、この作品に「感動」したからというわけではなくて、いまや幻となった「撮影所システム」の良質な要素を、現在ほとんど唯一体現しているといえる「山田組」の仕事っぷりを堪能したいと思ったから。

撮影、照明、録音、俳優はもちろんセットや小道具、衣裳、結髪といった各セクションのどっしりとした物作りの姿勢は、それだけでも観る価値はある、と勝手に思い込んでいるわけです。

とはいえ、漏れ聞こえてきた噂では、お忙しの木村氏の都合で、ロケーションは最小限にして、ほとんどをセットで処理しなくてはならなくなったとか。

なるほど例えば、物語の多くが展開する「家」もたそがれ清兵衛の「家」とは大違い。いったいどういった立地なのか、「周囲」が存在していないので、さっぱりわからず、出入りも門前を俯瞰目から無理矢理撮ってるといった感じだし、室内も「外」を回避するために詰めたサイズのショットが多いし、と、閉塞感が著しい(「たそがれ」が黄昏時に帰宅する道すがらの、夕映えの空に煮炊きの煙を上げる家々の美しさといったら)。雨やら雷やら蛍やら、必死に「外」を作ろうとした努力はうかがえるのですけれど。

そんな閉塞感はこの映画全体を押し包んでいて、それは物語の要素としての必然的な閉塞感(藤沢小説によく登場するしかけ……主人公がある事件に遭遇することで、顕現してくる時代や因習の持つ理不尽のようなもの)とは全く質が違っているように思うんです。

なんと言ったらいいのか……作り手が猫背を強いられてるような、そんなヌケの悪さを感じるんです。

それは絵作りだけでなく、物語にもいえることではないでしょうか。

これまでの二作では、覆い被さってくる時代や因習(義理だとか家だとか道だとか)に主人公が剣によって一瞬裂け目を開き、その隙間から、唯一自分が選び得るもの、つまり「愛」を掴み取る、というテーマを少しづつ角度を変えて展開してきて、今作もその延長にあるはずなのに、なぜか、寝取られ男の復讐譚みたいな感じに終わってしまったように思えてなりません。 その辺りについては、もっと突っ込んで考えてみたいという気もしますが、とりあえず、ここまで。

とにかく、三部作の最後が、これ、っていうのはちょっとさみしいよぅ。

勝手なひとりごと。

壇れいは、その首の太さとしっかりした尻が和装に恐ろしくマッチしていて、ああ、和服のエロスってこれなんだっっっって、勝手に欲情。

木村拓哉の胸のすくような殺陣は、その重心の低さが勝因だったのかっっって、勝手に納得。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (7 人)おーい粗茶[*] 仮面ライター龍樹 Aさの[*] けにろん[*] sawa:38[*] ぽんしゅう[*] IN4MATION[*]

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