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[コメント] ミスティック・リバー(2003/米)

チェンジリング』から振り返る思いでDVDで再々見。撮影監督は同じトム・スターンだし、キャスティングディレクターの手腕による脇役端役の充実度も共通している。モチーフの相似も随所に感じるが、ここはひとつ脚本から映画を立ち上げるイーストウッドの演出手腕について考えてみたい。
shiono

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画の魅力はすでに多くで語られているが、私の高評価はまず原作に惚れたという部分が大きい。原作小説 vs 映画化作品はしばしば論じられるが、映画が小説を越えることは極めて困難であるようだ。というよりも最良のケースとは、映画と小説が拮抗した挙句、分け隔てなく一体化することであるように思える。

以下長文となります。またデニス・ルヘインの原作小説のネタバレもあります。

私は映画を見た後で小説を読んだのだが、クライマックスの、ショーン・ペンとティム・ロビンスの対立シーンにおいて、映画ならではの脚色がなされていたことに驚愕した。

この場面は、映画では、主にショーン・ペンの葛藤として描かれている。ペンはロビンスが娘を殺したことをすでに確信している。彼の心は、ロビンスの裏切りと悲しみで散り散りに引き裂かれており、殺害したことをロビンスに自白させなければ気が済まない。

「殺したと白状したら命だけは助ける」というのは実質的には二律背反である。なぜなら、ペンは、娘を殺した犯人には絶対に報復するという人物だからだ。ここでちょっとひっかかるのは、ペンはそういうキャラクターであるということを、ロビンスは十分理解しているはずだ、ということ。このあたりは、演出と芝居の迫力で一気に乗り切るという方法を取っている。真犯人である少年たちとの詰問シーンをカットバックしているのも映画的な見せ方だ。

原作では、小説ならではの深く掘り下げる心理描写で構成している。ロビンスの葛藤を軸に描写しているのだ。

ロビンスはペンの娘を殺していない。その代わりあの晩に一つの殺人を犯している。この殺人についてペンにちゃんと説明できない事情があり、それで自分にかけられた疑惑を払拭できないのだ。

小説によるロビンスの心理描写はこうだ。

>>どうしてあの小児愛者を殺したのか知られるよりは、彼の娘を殺したと思われるほうがいい。

それはなぜか。

>>「ほう、例の強盗の作り話か?」とジミー(=ショーン・ペン)は言った。

>>「ちがう。やつは小児虐待者だった。車の中で子供とセックスしてた。やつは吸血鬼だったんだ、ジム。その子を汚染してたんだよ」

この「強盗話」は映画と同じ。異なるのは以下の部分だ。

>>デイヴ(=ティム・ロビンス)は言いたかった―おれがあいつを殺したのは、おれ自身があいつになってしまいそうだったからだ。やつの心臓を食ったら、やつの精神を取り込んで、隠し持つことになる。しかしそれは声に出して言えない。その真実を明かすわけにはいかない。もう隠しごとはしないと今日誓ったが、しかしそれだけは隠しておかなければならない。隠すためにどれほどの嘘をつくことになろうとも。

ここである。ロビンスは、小児虐待の現場を見て、被害者である少年に同化したのではなく、加害者に自分の姿を見たのだ。自分もある日、少年を「虐待する側」になってしまう、彼はその萌芽をずっと抱えて生きてきたのだ。あの少年の日、自分だけが誘拐犯に連れ去られ虐待を受けた日から今まで、ずっと。

ロビンスが、自宅居間で吸血鬼の映画を見ているシーンがある。吸血鬼に襲われた者は、自分も吸血鬼になる、と意味不明なことを妻に語って怖がらせるシーンである。これは原作にもあるが、映画だけを見ていたら、このシーンの意味はよくわからないだろう。

まとめよう。原作では、小児虐待の被害者はやがて、小児虐待の加害者となる。虐待を受けて育った子どもは、自分の子どもも虐待する、という負の連鎖と同種の悲劇である。ロビンスはこの強迫観念に取り付かれており、妻も含めそれを誰にも打ち明けられないでいるのだ。これが、ロビンスが潔白を証明できなかった理由だ。

ところが映画では、ここまでの心理描写は採用せず、ロビンスはあくまで小児虐待の「被害者少年」と自分を同化させて怒りを爆発させ、犯人を殺した、ということにしている。それでも殺人は殺人であるし、ロビンスとしては自分の過去のトラウマがまた血を吹いた形となり、平静さを完全に失ってしまったのだ。

さて、そこでこの映画における俳優の役作りについてである。ロビンスやペン、ケヴィン・ベーコンを初めとした主要キャストは、原作小説を読んで役柄についての造詣を深めていった。ほとんどの部分で原作のスピリットに忠実に脚色されていることもあって、原作は役作りに関して大いに理解を助ける役にたった、とベーコンはオーディオコメンタリーで述べている(読了し、自分が演じる役柄については「よし、わかった」という気分だった)。

映画化にあたり取捨選択されて脚色された部分、特に上述したクライマックスシーンにも、原作の心理描写が形を変えて息づいているように感じるのは、それぞれの役者が十分に役柄を把握しているからだろう。イーストウッドは役柄の把握を役者に任せる演出家だし、そのテキストとしてはまさにこれ以上のものは望めないというほどのものを原作小説が提供している。

だから、ペン、ロビンス、ベーコン、ローラ・リニー、マーシャ・ゲイ・ハーデンといった中核のキャストが、それぞれ独自性をもって自由奔放な演技を繰り広げ(彼ら同士の演技合戦の趣もある)、イーストウッドが統率的に支配する芝居場になってはいない、というのも頷ける。

また、イーストウッドが、脚本のロジカルな部分について、あえて主体的に観客にわからせる必要はない、と考えていることも感じられる。ロビンスの「吸血鬼」の戯言が、本来のメタファーとして観客にダイレクトに伝わらなくても、ロビンス自身が意味を把握していれば、その芝居に真実味が宿るだろう、ということだ。

こうしたキャラクター造形や、脚本が持つ論理性を硬直的に突き詰めない柔軟な演出というのは、『チェンジリング』で、より卓越した域に達したようだ。

(評価:★5)

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