[コメント] イングロリアス・バスターズ(2009/米=独)
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今回、タランティーノの映画史講義はヨーロッパに題材を求めているのであろうが、私には引用を楽しむほどの知識はない。いずれにしろ優れた映画はどこか他の映画と似た部分を持つものだ。QTは天井知らずの力量をつけているので、彼の名が刻まれた新作としてただ心の底から楽しんだ。
キャスティングにも目を瞠るが、ここでは脚本と人物造形のおもしろさについて考えてみたい。第五章の展開について、私は最初はちょっと引っかかりを覚えた。ブラッド・ピット達とダイアン・クルーガーが映画館に赴く作戦の手はずである。明らかに疑わしいクルーガーが、なんの反撃の手段も持たず、クリストフ・ヴァルツの後をついていってしまう。残されたピットもやばい状況なのに、ロビーで愚鈍に立ち尽くしたまま捕らわれてしまう。
その前のイタリア語を絡めたコミカルな演出もあって、これはコメディと受け取っていいのか?と煙に巻かれた気持ちになったが、よくよく考えればこの爆殺計画はスーサイドミッションなのである。この面々は生きて帰ろうとは思ってはいない。なのに例えば「ワイルドバンチ」のクライマックスのような決死の目配せが交わされることはない。
この淡白な人物像からはヒロイズムが感じられない。キャラクターから感情を剥ぎ取ると、そこには外見と行為しか残らない。その行為を通じて、私たちはただ肉体が繰り出す造形の豊かさに興奮しながら、一方でそのキャラの魂とでもいうべき存在感を感じ取ることができる。
と、いうことを理解できたのは、偏に、唯一感情を表に出すことを許されたメラニー・ロランのキャラクターのお陰だった。彼女のキャラは、その登場シーンからしてこの映画のエモーションを一手に引き受けている。「キル・ビル」のユマ・サーマンもそのような存在だったが、仇役のすべてもまたキャラの立ったヒロイックな人物だった。作品世界が極めて劇画的な「キル・ビル」だからそれがよかった。
本作はその背景として史実を取り込んでいて、しかも究極存在とでもいうべきヒトラーが出てくるのだから、フィクションとして飛躍するには多かれ少なかれコメディやファンタジーの力を借りなければならないだろう。それは英雄譚とは真逆の人物造形を意味し、ヨーロッパ映画的な淡々とした写実性を持つ人間観察テイストでもよかったのかもしれないが、仕上がったものはやっぱり隅々までアメリカンだ。
オリヴェイラ「永遠の語らい」のごとく仏語、米語、英語、独語、伊語が飛び交い、これで露語があれば西欧映画史の主要言語が勢揃いだ、などとひとり喜んだりしたのだが、それにしてもロランが女優ではなく映画館主というのはやはりQTらしい。復讐の仕上げとしての最後通牒をフィルムを通して成し遂げるというおもしろさ。ミステリ作家ならば映写機を脱出のための時間稼ぎとして使うだろうし、舞台演出家が脚本を書いたら、そもそも生身のヒロインをステージ上に登場させたくなることだろう。しかしそんな小手先よりも遥かに優れた演出があの映写室にはあったのだった。
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