[コメント] 愛を読むひと(2008/米=独)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
元SS看守で文盲のヒロインが、ホロコーストの体験手記を綴った書物によって告発されるという話である。文字を書けないという無学のために、法廷から重い判決を言い渡されるのがウィンスレットの役どころだ。
剣よりも強いペンの向かう先は権力であり、無学な個人を糾弾するための道具ではない。ウィンスレットもまた戦争という名の犠牲者なのだとする態度もまた傲慢である。つまりこの話は最初からまやかしなのだ。文盲というアイディアから捏造された似非人間ドラマなのである。ハンディキャップをプロットの核として使う映画には碌なものがない(カロリーヌ・リンクの『ビヨンド・サイレンス』は数少ない成功例だ)。
レイフ・ファインズが朗読テープをウィンスレットに送りつけるその偽善者ぶりにも怒りを感じる。文学は人間が生み出した英知のひとつであり、ただ面白いお話を聞かせるのであればそれは暇つぶしにしかならない。ウィンスレットがその知性を自分のものにするために、ファインズは彼女の傍に行って手取り足取り国語を教えるべきであった。
そもそも、デヴィッド・クロスがウィンスレットのアパートに入り浸る過程が不自然だ。読書好きなら、まずはその部屋の書棚に目が行くだろうし、本の貸し借りもするだろう。そこに両者の人間関係を投影させるのが脚本家の役目だ。クロスは早い段階でウィンスレットが文盲であることを見抜いてしかるべきで、国語教育にまつわるやり取りで不仲にさせる展開にしたほうが自然だ。
それもこれも、書物として結晶した人間の英知への敬意がないということだ。人から人へと語り聞かせることの本質的な意味が失われている。教育が至らなかったから簡単にナチに洗脳されたのだというような物事の単純化は危険である。法廷シーンの演出も杜撰だ。成文法もまた文学と同様、そこには人間の知性が通っている(はずの)ものとして扱うべきである。ジンネマン『わが命つきるとも』を見て出直して来いといいたい。
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