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[コメント] ソラニン(2010/日)

Lottiのライブに行きたいです。
林田乃丞

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 この映画の作り手にとっては、ロックも、ライブも、たいした価値はないんだろうな。それよりも物語をつつがなく進行することのほうが、ずっと重要なんだろうな。

 最後の最後で、とても残念な映画だった。クライマックスのライブシーンで「ソラニン」のサビに回想がかぶったところで一気に白けてしまった。ああ、物語が映画を裏切った、と思った。

 ライブで客前に立つということは、その表現を個人的な物語から逸脱させるということだ。ライブでは板の上で行われた表現がすべてであり、個人的な感傷や経験や技術はその表現の出力を高めるための要素でしかなくなる。そうして個人から切り離された表現の純度こそがライブの真価なのであり、映画がライブを撮るならその純度だけを撮るべきだったと思う。だって芽衣子の歌声にどれだけの思いがこもっているかは、もう私たちは知っているのだから。2時間かけて追いかけた彼女が、どんな歌声で、どんな顔で「ソラニン」を歌うのか。それを思うだけで、私たちは劇中の観客よりも熱い思いで彼女のライブを体験できたはずなんだ。

 映画はそれを撮り切れなかった。歌の途中で映画が物語を喋らなければならなかったということは、この歌に物語のすべてが「詰まっていない/込められていない」ということだ。

 あおいの歌がヘタだから、映画のクライマックスに耐えられないとでも思ったのだろうか。だったら、『NANA』や『タイヨウのうた』みたいに本物のシンガーを使えばいい。少なくとも私は、あのあおいが演じた芽衣子のライブを見たかった。せめて一曲でもいいから、彼女の種田への思いが歌声としてどんな風に結実するのか、それを余すところなく聞きたかった。見たかった。そう思わせるだけの芝居を、宮崎あおいという女優は積み重ねていたはずだ。

 これじゃまるで、彼女の歌が物語の添え物にしかなっていないことに、作り手は気づいていないのだろうか。いちばん大切なライブシーンが、グラビアアイドルのバックバンドみたいな扱いになっていることに、作り手は気づいてないのだろうか。

 原作は読んでいないのだけれど、この物語だったら、映画化の意義って「歌が聞こえる」ってことがすべてなんじゃないかと思うのだ。『ソラニン』は、歌が人に寄り添い、人を支える物語だったはずだ。その歌を、物語とカメラが2時間かけて作り上げた歌声を、最後の最後でちゃんと聞かせないなんて、本気でどうかしてるんじゃないかと思う。ライブの力、歌の力を信じられないなら、こんな映画撮らないでほしいよ。

 *

 加えていえば、鯖川ならぬ鮎川の歌を聞かせてくれなかったのも不満でした。『リンダリンダリンダ』、『ROCKERS』、『スウィングガールズ』……ライブ映画の豊かさって、結局そういうところに宿るのだと思うです。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (8 人)おーい粗茶[*] TW200改 IN4MATION[*] McCammon 寿雀 Orpheus ペペロンチーノ[*] 脚がグンバツの男

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