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[コメント] 息もできない(2008/韓国)

まるで血を吐くように、激しい言葉で口もとを汚す人たちがいた。それは泣いているようでもあり、歌っているようでもあった。
林田乃丞

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 人は、幸せになるために生きているとしたら。

 *

 この映画の原題『トンパリ』は、排泄物にたかる蝿のことなのだそうだ。主人公サンフンは殴ることでしか社会とつながれない男だ。債務者を殴り、同僚を殴り、街のチンピラを殴り、チンピラにからまれている女も殴り、女子高生も殴る。まるで息をするように、人を殴る。それがサンフン、拳を振るわなければ“息もできない”男。

 そんなサンフンの前に現れた少女もまた、息苦しい日々を送っていた。サンフンに唾をはきかけられ、殴り倒されたとき、彼女はもしかしたら、生まれて初めて「汚いもの」として扱われたんじゃなかっただろうか。面倒すぎる家族に囲まれながら優等生を演じ続け、心のなかに澱をため続けてきた彼女が、初めてその正体を他人によって認められた瞬間だったんじゃないだろうか。

 だから彼女は嬉々として“Fワード”を連発した。それは、溜めに溜めたうんこを便器にぶちまけることでもあったし、ずっと歌いたかった歌を一緒に歌ってくれる人を見つけたことでもあった。

 「韓国の父親はみんな最低だ」サンフンのセリフだ。

 貧困は父権社会からすべてを奪い去り、父親の威厳は醜く変容して彼らすべてをモンスターに変えた。サンフンも少女も、そんなモンスターたちに魂を食われた犠牲者だった。

 そんなサンフンが死に、彼のまわりにわずかながら残された人たちとともに、少女は慟哭した。それは泣いているようでもあり、歌っているようでもあった。

 そうして心から笑えるようになった少女の前に現れた“穢れ”た肉親に、彼女は彼の姿を見る。幸せを手に入れた彼女には、もうそれは“穢れ”としか写らない。あんなに求めた、姿だったのに。彼の“穢れ”と死に、彼女自身が救われたというのに……。

 *

 人は幸せになるために生きているとしたら。最低な自分の穢れをすべて背負って、穢れきって逝ったあの最低の男に、そうして自分に安寧の日々をプレゼントしてくれた、天使のようなあの男の死に、少女はいったい何を思えばいいのだろう。

 ちくしょう、幸せって、いったい何だ。

(評価:★4)

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