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[コメント] エターナル・サンシャイン(2004/米)

すっげーなカウフマン。完璧に天才の仕事。感服。
林田乃丞

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 例えば何らかの事情で年配の先生がジョエルの家に来れなくて、若手のメガネくんだけで治療が行われていたとしたら。彼の中のクレメンタインの記憶は「子供時代」や「少年時代」のどこかに紛れ込んだ形でずっと残ってゆくことになった。つまりそれは、いわゆる「他の出来事と同じ普通の思い出」になるということで、ひとつの恋の終わりを意味する。

 現実の中ですごく好きだった人と別れると、忘れたくてもしばらくは忘れられないけれど、やがてそれは「普通の思い出」になる。この映画の場面でいうなれば、

「ああ、俺は少年時代に白い家に住んでいたな」

「ああ、そういえばオナニーしてて母親に見つかったことがあったな」

「ああ、むかしクレメンタインってちょっとオカシイけど好きだった女がいたな」

 人はそうやって、ひとつの恋を終わらせてゆく。

エターナル・サンシャイン』の中でジョエルがクレメンタインを少年時代や“屈辱”の中に押し込めようとした行為は、つまり彼女を「普通の思い出」として処理しようとする行為だった。それは、「恋人同士に戻れなくたっていい、俺は彼女を忘れたくないんだ」というとても悲しい行為だ。そうして彼女を強引に「普通の思い出」の中に押し込めようとしたが、彼はどうしたって楽しかった出来事のイメージを思い出してしまい、なかなか押し込めることができない。だから楽しかった出来事を引きずったまま「記憶消去装置」から逃げ惑うことになる。このへんのもっともしみったれた未練がましい部分を笑いを交えて展開するあたり、本当にこの脚本家はすごい。

 しかし、彼が本来望んだのは完全な記憶の消去だった。年配の先生が訪れ、「普通の思い出にすらさせない」という徹底的な治療を始めたとき、いよいよ彼は追い詰められることになる。

「忘れたくない」気持ちと「忘れさせる」装置とのせめぎ合いの中で、記憶の断片として残った「モントーク」という地名。ジョエルとクレメンタインが再度引き合わされたのは、彼の彼女への思いが装置の性能に勝利した結果だった。

 ここから。ふたりはまったく最初から恋愛関係を築くこともできた。しかしその関係はやがて同じように破綻を来たし、ふたりは別れ、また互いに「相手を忘れたい」という気持ちに苛まれることになったはずだ。受付の女のコ(キルスティン・ダンスト)のおかげで、彼らは互いに向き合い、新しい関係を築いてゆく。

 記憶を消すことなんて、実際にはできない。ツライ思いも、カワイイあのコへの未練も、結局は自分で消化してゆくしかないのだ。記憶消去装置という荒唐無稽な設定を使って「時間を早回しする」ことで、「実際には時間は早回しできない」と言っているわけだ。私の勝手な想像だが、おそらくはカウフマン自身か企画関係者の身近に失恋にひどく傷ついた人間がいて、その人に向けた映画なのではないかと感じた。それくらい「観客に近い」映画だ。消去装置と戦うジョエルの傍らでセックスに興じるふたりには、「君はどうやら深く悩んでいるようだが、周りの人間にとってはそんなに重要な問題じゃないんだぜ?」という脚本家の茶目っ気が見て取れた。なんともはや、至極まっとうな恋愛映画である。だいたいこの記憶消去会社がなかったらクレメンタインもそのうちクールダウンして、普通にジョエルと仲直りしてたはずだ。そうじゃなきゃ、ラストで赦し合うことなんかできない。

 ところで、こうした人間の些細な不平不満に対して人智を超えた過剰なサービスを与え、人間本来の弱さやズルさを浮き彫りにして、「自分に都合のいいその場しのぎの行動を取るとマジで痛い目見ますよ」という話をブラックユーモアに交えて訴える作品が、そういえば日本にもあった。

 『エターナル・サンシャイン』は、ハリウッド版『笑ゥせぇるすまん』だ。やっぱすっげーな藤子不二雄A

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)おーい粗茶[*] m

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