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[コメント] 戦場のピアニスト(2002/英=独=仏=ポーランド)

"The Pianist"と題しながら映画の大半でその指を封じられている主人公は、むしろ音に脅え続けることを余儀なくされる。憚りなく発せられるのは爆音や銃声、悲鳴や怒号ばかり。「音」と「窓」の映画。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ユダヤ人を虐げ、殺害するナチスドイツの軍人たちは、ゴミを片付けるような無造作さでそれを行なう。突然住居から追い立てられ、外に並ばされ、どういう基準か分からぬ選別によって前に立たされた者たちが、どこかへの移住を命じられたり、淡々とした手つきによって手際よく銃殺されたりしていく光景は、それを実行する者たちに人間的な憎悪や嫌悪が見えないが故に、余計に不条理で唐突な暴力として提示される。そして、道端に放置されて蠅の集る死体にすら無関心になっていくユダヤ人たち。シュピルマン自身、いつしか奴隷的な振る舞いが身についてしまう。暴力の日常化。久しぶりに再会した知人女性の前で「汚くてすまない」と申し訳なさそうにしている姿の無惨さ。彼女の家の風呂に黒く浮かんだ汚れはそのままシュピルマンの労苦の蓄積だ。

シュピルマンは専ら、街の惨状を窓の下に見る。ドイツ兵に虐殺されるユダヤ人たちも、ユダヤ人らによる抵抗運動も、ソ連の進撃を受けて病院に搬送されるドイツ兵の数が増しているらしい様子も、全てが冷酷な距離によって捉えられる。特に抵抗運動は、かつてはシュピルマン自身「僕にも手伝わせてくれ」と訴え、実際、隠していた銃をナチス軍人に見つかりかけるという危ない橋さえ渡っていたのだが、現実に闘いが開始される時には、それを遠くから見下ろすだけになる。廃墟と化したドイツ軍の病院に身を隠しているシーンでも、割れた磨りガラスの隙間から眼下に外の様子を窺い見る。一方、シュピルマンが否応無く事態に巻き込まれる瞬間も、ラジオ局の窓が爆風で粉々になるとか、潜んでいた病院の窓を火炎放射器の火が突き破るといったように、窓の破壊として表現される。

そうした視覚的な演出のみならず、シュピルマンに与えられた情報は極端に少なく、隠れ家を訪ねた協力者が、新聞紙をテーブルに置くという些細な出来事にさえ一条の光が射して見える。勿論ラジオなど聴ける筈もない。何も知れず何も為しえぬ彼の状況を、観客も共有することになる。収容所に送られた筈の家族がどうなったのかも噂話から推測することしか出来ず、またその推測に従うなら、生きて再会することは叶わない。そうした決定的な悲劇からさえも、曖昧さという壁に遮られ、嘆くことすら許されないという、徹底的な受動性に置かれるシュピルマン。

薄い壁越しにピアノの音を響かせていた隣人は、だが、食糧を求めて棚の皿を落としてしまったシュピルマンを部屋から追い立て、「ユダヤ人よ!」と大声を上げる。シュピルマンを匿ってくれた女性が朝、チェロを演奏している姿も、開いた扉の向こうから見つめていることしか出来ない。

この隔絶的な「距離」と、必要最低限の物さえ置いてあるのか不安なほどに殺風景な隠れ家。音を出せないが為に、眼前にピアノが置かれていても手が出せない枯渇感。食糧の乏しさによる、文字通りの飢餓感。ただ部屋でジッとしていることしか出来ない、仮初の平穏さそのものにさえ追い詰められているようなシュピルマン。食糧を買う金が無いと言われれば、これを売れと腕時計を差し出す彼からは、もはや時間の経過すら意味を成さない膠着状況が感じ取れる。

シュピルマンは、隠れ家からも砲撃によって追い立てられ、その爆音の激しさのせいで、一時的に聴覚をやられてしまったりもする。ようやく食糧と思しき缶を見つけた彼は、それを開けようとしていた途中で逃げることを余儀なくされ、後生大事に抱えて潜んだ最後の隠れ家で再びその缶と格闘していた時、缶に金具を打ち込む音が気づかれたのか、ドイツ軍将校と遭遇してしまう。シュピルマンが立てた音は別に大音響というわけではないのだが、焼け跡の廃墟の静寂の中では、人が存在することを覗わせる音が響くことは、大きな出来事として聞こえてしまう。ドイツ語の声や、銃声、爆音といった音に脅え続けていたシュピルマンだが、静寂もまた彼を脅かすのだ。

だからこそ、皮肉にも敵であるドイツ軍将校ホーゼンフェルトに促されたことで暫らくぶりに"The Pianist"としての自分を取り戻すシュピルマンの演奏シーンは、もうここで殺されるかもしれないという恐怖が、もうここで殺されても悔いは残すまいという演奏に転じて聴こえてくる。シュピルマンがそう真情を語るわけではなく、僕が一観客として勝手に感じたことに過ぎないのだが、話し相手も少なく、物音によって自分の存在を気づかれてもならないシュピルマンの状況が、僅かな音や、沈黙のうちにたち込める空気を観客が読みとるよう導いていくのだ。声も物音も出せなかったシュピルマンが、自らの奏でる音によって救済されるプロットは、恐れるべきは音ではなく、個々人の人間性の有無なのだと痛感させられる。

エンドロールはシュピルマンの演奏シーンとなるのだが、オーケストラの音に反応し、軽やかで明瞭な音を会場に響かせるシュピルマンの指は、幸福感によって跳ねあがり踊っているように見える。冒頭の演奏シーンでは爆撃によって演奏を妨げられていた彼が、聴衆の静寂に守られて音を享受し、最後は万雷の拍手に包まれる。音を聴き、音を聴かせることの解放感のみならず、暴力的な音に苛まれずにいられるという、静寂の安心感は、身を隠していた頃の、緊張感に張り詰めていた沈黙とは対照的な自由を感じさせる。

因みに、劇中で楽曲が使用されているショパンだが、彼は、ポーランドに於けるロシアの支配に抗う民衆の蜂起に共感しながらも、自らは非力で何も為しえぬ代わりに曲にその想いを表現したりもしていた。シュピルマンの境遇と重なる面があるように思えるが、安易にそうした挿話を語らないのは一つの慎みでもあるのかも知れない。

この作品では逆にロシア側は救い手として登場するのだが、ホーゼンフェルトから貰ったコートのせいで、シュピルマンがドイツ人と間違われて撃たれそうになるシーンの最後、そのコートはどうしたのかと訊かれた彼が答える「寒いんだ」という一言は、餓えや寒さといった窮乏を救ってくれるのならば国籍や人種など関係が無いのだ、という真実を言外に告げているかのようだ。捕虜となったホーゼンフェルトの、シュピルマンを救った事実に縋りつくように自らの身を救ってもらおうとする訴えもまた、シュピルマンの見事な演奏を一枚のコートやパンと同等にしてしまう死の恐怖の力を、冷酷に突きつけてくれる。

(評価:★3)

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