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[コメント] さらば、わが愛 覇王別姫(1993/香港)

むしろ短すぎる。一瞬の、深紅の夢。だが惜しむらくは、チャン・フォンイーの存在の耐えられない軽さ。ここまで子役に完敗していいのか。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







久しぶりに再見したが、やはり序盤の少年期に於ける痛みの表現の数々は、観ていて脂汗が滲んでくる。また冒頭では、蝶衣と小楼の慎ましい再共演の場面に続くタイトルバックに、結末を予告する、項羽の前で自らの首に剣を刺して血を流す虞美人の絵。これにはハッとさせられた。

そして何より、とにかく画面が赤い。少年期の場面は最初、セピア色の画面で始まるが、赤だけは赤として画面に映えている。そして、多指症の小豆子(後の蝶衣)は母親に指を切られ、夥しい真っ赤な血を流す(この場面の直前の、路から聞こえる包丁研ぎの声は、後の場面でも使われていたように思うのだが、中国語が分からないので不明……)。

この指切断は、ベタな解釈で言えばやはり「去勢」の暗喩だろうし、その線でいくと、「私はもとより男ではなく」の台詞を「女」と言い間違える小豆子の口に、石頭(後の小楼)がキセルを入れて仕置きをし、小豆子が血の流れる口から正しい台詞を淀みなく言う場面もまた、暗喩としての「処女喪失」に他ならない。

この場面で小豆子が着ている衣装も赤、この後で元宦官の老人の屋敷を後にする途中で彼が拾う捨て子の身に纏っている布も赤。小楼が妻・菊仙(コン・リー)と出逢う場面も赤、菊仙が首を吊って死んでいる場面でも、彼女の衣裳は赤。この執拗な赤に、共産党の赤の象徴性を覆そうという演出意図があったのか無かったのかは知らないが。

それにしても、小豆子はあれほど同じ台詞を言い間違えるほどに、自分が「女」と名乗る事に抵抗感があったのだ。それを石頭によって乗り越えさせられたという事は、つまりは彼を、自分を女にした男として見る事を意味するだろう。小楼が言う「劇と現実を混同するな」という言葉は、蝶衣にとっては意味をなさないのだ。その、抜き差しならぬ「現実」の象徴が、あの元宦官の家にあった剣だ。

夜、共に酒を飲んで上機嫌の袁先生と蝶衣が、庭で戯れに唄い舞う<覇王別姫>。例の剣を手にする蝶衣に、袁は「危ないぞ!」と叫ぶが、冗談だろうと安心したように笑みを浮かべる。そこで蝶衣が流す涙は、所詮は虚構、演技でしかあり得ない、女としての自分の哀しい性を思って流したのかとも思える。

小楼は、現実を生きているように振舞いながらも、徐々に、権力や群衆の熱狂の前に、自らを演じるようになっていく。だが蝶衣は、自身に着せられた濡れ衣をそのまま引き受ける事になろうとも、法廷で嘘を言う事を拒むのだ。彼は、演じる事の出来ない者なのだ。小楼は、嘘をつける人間だからこそ、芝居と現実の生活を区別し得るのだ。

かつて小豆子と一緒に稽古場から脱走した少年は、過酷な懲罰を恐れるあまり首を括ったが、そうした封建的な価値観を覆した新勢力の圧力の結果、菊仙が首を吊る事になるのだ。この事はまた、娼婦への蔑視という点では、旧社会と道徳観が変わっていない事の表れでもある。娼婦である母によって稽古場に置いていかれた蝶衣は、自暴自棄になって麻薬に耽溺した時には菊仙に縋りつきさえしたが、彼自身もまた、自分に向けられた抑圧と排除の矛先を、菊仙へと転嫁しようとする。

それにしても、チャン・フォンイーですよ。幼年期、少年期の石頭を演じたフェイ・ヤンヂャオ・ハイロンは、兄貴分としての威勢のよさ、陽気さの中に一抹の繊細さ、保護者としての愛が感じとれ、小豆子が次第に身も心も寄せていく様が自然に見えるのだが、チャン・フォンイーにはそうした微妙なニュアンスが欠けている。これではただの元気なあんちゃんだ。残念。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)週一本 けにろん[*]

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