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[コメント] 山猫(1963/伊)

豪奢な倦怠。変化していく現実の中で、敢えて時代に取り残された存在としての役を演じているかのようなファブリツィオのアイロニー。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ファブリツィオは終盤のパーティのシーンでも、「私の胃には合わない」と食事を断り、アンジェリカのダンスの誘いにも「もう体がついていかない」と断り、死以外の何ものも求めなくなっている。だが客人の一人である政府軍の将校が、革命派の指導者の前に跪いたという話を自慢げに語っているのを聞くと、急に血相を変えて「誇張では?」と問う。だが将校が跪いたのは、相手が負傷していたから。将校は、一個人としての革命派指導者には敬意を表すが、革命派そのものは将校らの軍に制圧されたというわけだ。

ファブリツィオは、妻が彼に対してさえあまりに貞節な為に、娼婦の許に通う。また甥のタンクレディが革命運動に身を投じるのも支援する。ファブリツィオの中には、貴族的閉鎖性から逃れたいという衝動を見る事ができるのだが、そうした閉鎖的世界の外を受け入れる気持ちがあるからこそ、冒頭の、屋敷での騒ぎの中で彼だけが平静に祈りを続ける姿勢も可能となる。変化を受け入れられるからこそ、変わらずにいられる。精神の貴族としてのファブリツィオの態度。

だからこそ、タンクレディが政府軍に鞍替えして体制側についた事は、他ならぬファブリツィオに息苦しさを与えているようだ。髭まで蓄えて、すっかり落ち着いた様子のタンクレディ。

この映画は、最初から殆どが狭い範囲内(敷地内・屋敷内)で展開していたが、最終的には、パーティ客がひしめく煌びやかで豪奢な屋敷内に、登場時物も観客も閉じ込められる。役者たちが汗をかいているのは、撮影の光源を確保する為に灯された夥しい蝋燭の火のせいらしいが、あの汗が、屋敷の息苦しさを効果的に演出する。そんな場所から「新鮮な空気が吸いたい」と一人出ていったファブリツィオ。屋敷から一歩外に出るとそこは、一転して、全くの廃墟のような光景が広がっている。彼の望む「死」は、人間どもの寄り集まる場所のすぐ傍で、人間どもを取り囲んでいたのだ。

(評価:★3)

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