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[コメント] 鳥(1963/米)

鳥が理由も無く襲いかかる恐怖だけを純粋に描いた作品、という印象は意外にも、再見して覆った。画と音だけで演出された純粋映画といったイメージは、半ばは真実だろうが、半ばは伝説。鳥の登場までの焦らしシーンが、心理劇としての『』を構成する。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭のペットショップのシーン、メラニー(ティッピ・ヘドレン)がしてあった注文は九官鳥で、彼女は、言葉を教えたいのだと店員に語る。この時点では鳥は人間に近い、擬似的にせよ言葉で意思疎通した気にもなれる存在だ。ここで登場するミッチ・ブレナー(ロッド・テイラー)は、メラニーが悪戯で店のショーウインドーを割った嫌疑で裁判中であることに言及するが、「窓ガラスを割る」とは、まさに鳥が、人が身を隠す車や電話ボックス、家などの安全地帯を脅かすために行なう行動だ。

メラニーはこの裁判に加え、ローマの泉に裸で入ったという報道を、父のライバルである新聞社によって為されていた。彼女が主張するには、裸ではなく、泉には人に落とされたのだということだが、町でも彼女は余所者であり、パブのシーンでは或る母親から、鳥の災厄を招いた魔女扱いされもする。このパブのシーン、ついさっきまでバラバラなことを言い合っていた人々が一様に意気消沈している姿、特に趣味の鳥類学の知識を自慢げに披露していた老婦人が、後ろを向いてうな垂れる姿が印象的。電話ボックスからミッチによって救い出されたメラニーに向ける人々の視線の、何と恐ろしいことか。鳥に匹敵するほど怖い。鳥の、世界を破滅させる不条理な暴力性が、人々にまで憑依したようでさえある。あの鳥類学オバサンが得意げに「鳥が人を襲うわけがない」と講釈垂れていた間、観ているこっちは「今ここで鳥に襲われればいい!」と、鳥の狂気に半ば取り込まれてしまうのだが、実際に事が起こってガックリきているオバサンの後姿には、今度は同情してしまう。

話が逸れたが、ラブバードの鳥籠を手に悪戯心で町に乗り込んだメラニーは、その呑気な様子とは裏腹に、非常に孤独な立場に置かれてもいるのだ。いいとこ育ちのお嬢様というのも、余計にその孤独を強めているように見える。そんな彼女は、実は孤独感という点で、ミッチの母親リディア(ジェシカ・タンディ)と似た人物なのだ。意図的なキャスティングなのか、顔も似ている。暖炉から鳥が大量発生したシーンの後、後始末をするリディアは、亡夫の肖像画と思しき額の傾きを直していると、その上に乗っていた鳥の屍骸が落ちてきて、悲鳴を上げる。そのタイミングでメラニーが「今日は泊まりましょうか?」と口にする。夫亡き後、息子への独占欲に囚われていたリディアは、徐々にメラニーと擬似的な親子関係を結んでいく。これは、その独占欲に妨げられるようにミッチとの関係を解消した過去があるらしいアニー(スザンヌ・プレシェット)に対し、メラニーが「娘が出来たと思えばいいのに」と語っていた台詞とも重なる。

この、暖炉から大発生した鳥のせいで陶器のカップが壊れてしまったのを、リディアが一人拾い上げて見つめているカットがあるが(このカップに何か思い出でもあったのかも知れない)、続くシーンで彼女が、鶏の餌を買った相手であるダンの家を訪ねると、食器棚にかけてある陶器のカップが割れている。もうこの画で、何か鳥が事を起こしたのだと分かる。ダンの無残な死体を目にしたリディアは、ベッドで自分の思いをメラニーに語り、彼女に縋りつくようにする。

リディアの心配を受けて、小学校のキャシー(ヴェロニカ・カートライト)の様子を見に行くメラニー。ここで、生徒らが呑気にナーナナ♪と歌っている最中、ジャングルジムに鳥の黒山が出来上がってしまう名シーンになるわけだが、そこで唄われている歌詞は、「六月にお嫁さんを貰ったよ。月の光で連れてきた」といったもの。これは、メラニーとミッチの関係を間接的に歌い上げているのだろう。その前夜、アニーの家では、満月にも関わらず、鳥がドアに激突していたのだった。

クライマックスの、ブレナー家での籠城シーンは、音と光の簡潔かつ効果的な演出の点でも白眉。事が起こる前兆のような俯瞰ショットや、事が終わった後の仰角ショット、どちらも強烈に「頭上」を意識させる。鳥襲来の際は、鳥がこじ開けた戸を閉める為にミッチがランプのコードを使ったせいで灯りが一つ失われ、室内に薄闇が訪れる。更には、耳をつんざく鳥の声と同時に灯りがまた一つ消える。一旦事が終息したかに思えた後、メラニーが二階に登るシーンでは、彼女が手にしたライトだけが灯りとなって、更に闇が際立つ。

鳥の大群に襲われたメラニーは、意識を取り戻すと、まだ眼前に鳥がいるかのように手を必死で払う。ミッチらに抑えられ、もう大丈夫だと告げられても、目は虚ろで、表情は凍りついている。序盤からさり気なく描かれていたメラニーの孤独が、鳥を介して、ここで一気に表面化したシーンだと言えるだろう。

続く、家から一同が脱出するシーン。開かれた扉の向こうに、ミッチが移動した車があり、その向こうの曇天から光が射しているカットなど、ただの車が何か神聖な物のようにさえ見えてくる。キャシーはラブバードを車に乗せ、車中のメラニーは、リディアと親子のように身を寄せ合っている。ラブバードを連れてやって来たメラニーは、パンドラの箱を開けた後に残った「希望」のようなものだ。鳥、闇、天上の光のラストカットは、もはや宗教画のような崇高さを湛えている。

家の中に暴力的に侵入する存在としての鳥は、リディアにとって、「息子が連れてくる女」と似たものでもあっただろう。だが、その鳥の侵入によって、同時に「侵入」してきたメラニーとの交流が生まれるという辺りが実に巧みなプロットだ。そうした、女性の心理ドラマとしての構成は、純粋なサバイバル劇であるダフネ・デュ・モーリアの原作には全く存在しない。

パブで様々な個性の人々が言い合うシーンは社会の縮図のようで面白い。フランク・ダラボンの『ミスト』は、このシーンを更に膨らませて一本の映画にした観がある。人智を超えた不条理な恐怖に脅かされる絶望的な状況の中での人間愛、家族愛を描くという点では、M・ナイト・シャマランは『サイン』や『ハプニング』といった、これまた『鳥』同様にシンプルな題名の作品で継承している。シャマランは「愛」へとより物語の焦点を合わせているが、その辺はやはり、悪意的な天才・ヒッチコックと、ナイスガイなシャマランの違いなのだろう。

鳥籠の二匹のラブバードが、メラニーの隣の助手席で、カーブを曲がるのに合わせて一緒に体を傾けるシーン、あれは可愛い。可愛いといえば、メラニーがボートに身を隠しながら、遠くのミッチの様子を窺うシーンの悪戯っぽい仕種も可愛い。

ヒッチの撮る画はどこか書割のような人工的な趣があるのだが、そこに被さる鳥の声が一気に空間性を導入する序盤の音響演出は、インパクトが強い。

(評価:★4)

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