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[コメント] 夏時間の大人たち(1997/日)

ギャル風の過剰なデコレーションと、マンガ的なデフォルメを映像に施すイメージの強い中島哲也監督の、落ち着いた場面作りがあまりに意外。固定&遠景の不能と力能、及びおっぱいについて→
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







幾つかの規則性に基いた、整理された画面設計が快い。一つは、薄暗がりと、外から差し込む白い光のコントラスト。ボロ屋敷を訪ねる場面や、突然の天気雨。外光の明るさを心静かに眺めさせてくれる室内の薄暗がりの雰囲気は、タカシの母親の回想シーンでの、暗い台所でプリンを一緒に食べる場面の、涙が滲みそうな親密さと安心感を醸しだすのに貢献している(この場面での、大きなプリンにシロップをかけて「富士山みたいだねえ」と笑う場面は、僕の中でこの映画が一度クライマックスに達したと言えるくらいだ)。

或いは、画面の中央に観客の視線を誘導する構図。真直ぐに伸びる工場と、その正面にぽつねんと佇む少年。中央の消失点に向かっていく鉄棒の線。小さく開いた門の隙間に配された三人の人物。最も視線が向かいやすい、画面の中央に被写体を配して、左右の周辺視野を楽にさせてくれるこうしたショットは、身体的な快適さという意味でも合理的な形なのかも知れない。

また、余白を活かした場面作りも印象的だ。校庭を中央よりやや上方で上下に分ける、地面に引かれた白線の向こうに少年が立っている場面。原っぱと空。墓参りの場面での、墓場が何か謎の建造物のように見える遠景のショット。或いは、真っ暗な夜空に浮かぶ満月の大きさ(というよりは小ささ)。先述した、中央寄りの画面では、自ずと左右に余白も生じる。

このような画面設計は、固定&遠景という撮影手法に拠っている。動きも、稀に少しパンする程度だ。ショットの切り換えも抑えられている。動かない画面と、フレーム外に置かれた現実音が、この映画全体に漂う、被写体との定点観察的な距離感をもたらす。走って逃げたトモコを追うタカシの、乱れた呼吸と足音。カメラは、必死で走るタカシを目線で追ったりはせず、画面に彼が入って来、消えていくのを、ただジッと待っているだけだ。

こうした撮り方が、一つの世界観である事を改めて感じさせてくれるのは、タカシの父が首を痛めてコルセットで固定し、窓の外を黙って眺めている場面だ。彼は子供の頃、学校の宿題である絵に妹が落書きをし、それを泣きながらクレヨンを塗りたくってごまかした所、その独得の色使いを評価されて賞状までもらってしまうという、逆立ちした挫折体験とも言うべき記憶に、密かに苛まれている。自分の力でなく評価されたという不能性。その事を知っているのは自分だけだという孤独。だから、彼が虐められている女子高生に感情移入してしまった事にも、一人ぼっちの挫折者として確認し合う相手が欲しかった、という感情が読みとれる。

彼が見つめる女子高生の様子は、珍しく手持ち撮影がされている。コルセットで首を固定された男の視点としては、動きがあるのはおかしいとも言えるが、窃視する者の主観の表現としては正しい。見る者の生身の身体性によるブレと、それを抑えて眼差しを対象に合わせようという努力の感覚が見える事が大切なのだ。

この父を演じるのが岸部一徳という、無表情と、抑揚の乏しい声とが、却って何がしかのものを醸し出してしまう存在感を持った役者であるのは的確だ。彼は元々挫折の人であり、首の怪我はそれを自覚する契機だったと言える。だからこそ、映画の最後で仕事場に復帰したその姿も、単に店番として座っているだけという、一人で部屋にいた時と大して変わらない姿なのだ。コルセットもまだ外れていない。

この父の挫折は、息子のタカシの、逆上がりが出来ない事を学級会の議題にされてしまうという、衆目に晒された挫折とちょうど対照的である。父は息子のそんな事情など知らないのだが、彼が一身に体現する不能性の視線そのものとも思える固定&遠景の効果は高い。タカシの目線に下りず、彼の幼さとの的確な距離感を保つ、冷たくもないが生温かくもない視点。この距離感は、タカシの両親が自らの子供時代に対して持っている距離感と、よく似ているのではないか。

この作品での家族の描き方は、例えば一緒に食卓を囲むといった、いかにもな表現には拠らず、両親の子供時代の回想と、タカシの現在進行形の物語が並行して進む事による、密かな夏時間の共有を通して描いている。また、父が口にする「メシ、まだかな」や、母が回想シーンで腹の虫を鳴らす場面、タカシの「ハラへった〜」という台詞で、緩やかにつながる家族の姿が表されている。こうしたさり気なさが好ましい作品だ。

また、タカシの成長の描き方を論じるにあたって、おっぱいについて語らない訳にはいかない。冒頭からいきなり「CCガールズの右から二番目」青田典子の大きなおっぱいに捧げるタカシの讃辞から始まるこの映画。彼の焦眉の課題である逆上がりへの挑戦も、おっぱいの大きい女性と結婚できるか否かというのが、彼自身の動機なのである。おっぱいに始まり、おっぱいに終わる映画。

父の代わりに店番に来た親戚の夏子に対しても、「ペチャパイ」だとバカにし、彼女が週刊誌でヘアヌードになって母や叔母が大慌てしていても、「あんなペチャパイのヌードなんて、だれも見ないよ」と意に介さない。ここは彼に「いや、そうでもないよ」とツッコミを入れたくなる所だが、要はこの巨乳原理主義の頑なさこそ、まだ色んな意味で世界を知らないタカシの幼さを象徴しているのだ。広い世の中にはペチャパイが好きな人もいるし、巨乳かどうかの二元論で割り切れるほど人の心理は簡単でもないのだが。

そんな彼が、「ペチャパイなのになんでか気になる」トモコと関わるシークェンスこそ、映画がそこへと収斂していく所だ。タカシは逆上がりに成功し、あれだけ苦労して出来た手のマメも、いつしか消えている。儚い時間の流れ。タカシは最後のナレーションでも言っている、「どうして、忘れてしまうことと、忘れられないこととがあるんだろう」。その一方、一度は逆上がりに成功していたトモコが、失敗し、再び一人で練習に励んでいる。マメを作りながらもコツを掴んだ彼女が「よしっ」と喜ぶのを見て、満面の笑顔を浮かべるタカシ。監督でもない僕でもその表情を見て「よしっ」と言いたくなるような、いい笑顔だ。この映画での、数少ない(タカシの脳内劇中劇を除いては、ほぼ皆無?被写体に寄ってもバストショットまで)、印象的なクローズアップ。

最後の「トモコのおっぱいが、少しでも大きくなりますように!」という台詞は、少しは「おっぱいが大きい」から脱しつつあるタカシの、それでもまだまだ子供時代は続く、という時間のスケールを感じさせ、妙に感慨深いものがある。

タカシにとって世界の範囲は、学校と、家族、親戚程度の広がりしかない。だからこそ、校則に反して買い食いをやめない同級生の少女や、親戚を動転させるヘアヌード騒動を起こす夏子の存在は、タカシの世界で当然視されている法則に対するアウトサイダーとして重要だ。タカシの母は少女時代、学校で楳図かずおのマンガを見せられ、蛇女についての噂に影響されて、病床の母を恐れるようになる(彼女が、濡れたら蛇女になると聞かされた雨に自ら身をさらす場面の美しさは、堪らないものがある)。父は、学校で称賛され表彰された事が却ってトラウマとなっている。タカシも逆上がりの事で、同級生からも体育教師からも追いつめられる。だからこそ、単にそれに悩んだり克服したりする様子だけではなく、元からそうした価値基準の外にいるような人物を配するバランス感覚を評価したい。

最後にもう一つだけ画面作りについて言いたいのは、色彩の事。中島哲也というと、目が痛くなりそうな過剰なカラフルさを好む人だという印象が強いのだが、この映画に関しては違う。地面の草の緑と、工場のくっきりとした赤と白。タカシの母が、行方を眩ました夫が女子高生とカラオケボックスにいる現場へ走って直行する場面での、彼女の服の赤さ。そのカラオケボックスの外観の配色。学校のプールの側に置かれたビーチサンダルの鮮やかさ。色彩への欲求を匂わせつつも、過剰さへの欲求は微塵も感じさせない。最近の、パチンコ屋的な過剰さは、話の主軸に女性を据えた事による変化なのだろうか?

(評価:★4)

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