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[コメント] 彼方からの手紙(2008/日)

時折ハッとさせられるカットがあり、編集の妙にも感心させられるが、まだ生硬さが残っている。その観念性や、瞬間的な感性の炸裂がどこか力業的な空虚さの炸裂と感じられる青臭さは、特にあの「部屋」のシークェンスに顕著。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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滲んだ色彩が徐々にバス車内の少女・(朝倉あき)の像を結ぶオープニングの、曖昧な距離を詩的に描く本作に相応しいファースト・インプレッション。冒頭、吉永(スズキジュンペイ)が不動産を客に勧めているシーンでの、お勧めトークを無効化するかのように階段の上からボールが落ちてくる演出。無人のコンビニで万引きをしかけて止め、それを帰宅してから同棲相手の女(三村恭代)に話さずにいられない吉永の、一線を越えたいのに越えられないもどかしさ。草叢で草をむしっていた吉永が、タバコを捨てて踏みつけながらもやはり拾ってしまう小心さ。歯磨きをしていた吉永が突然むせて鏡に吹きかけてしまうカットの直後、きれいな鏡に向かって女が化粧をしているカットが入るという、二人のそこはかとない距離を感じさせる、編集の妙。出社するのをやめた吉永が被る赤いニット帽のミスマッチ感。吉永が不在の食卓に着いている女が、「あれ」と視線を向けたので吉永が帰宅したかと思いきや、視線の先にいるのは黒猫、というシーンと、彼女が吉永の代わりに猫とペアになることによる、「吉永−少女」組との断絶。吉永が少女と一緒に、飛行場の近くで戯れているシーンでの、向こうから飛行機が飛んでくるタイミング(それに合わせた演技をしているということでもある)。この飛行機に加え、吉永が少女と訪れる不思議な部屋や、女と暮らす自宅の壁に見える世界地図が暗示する「彼方」。

美点を拾い上げればこのように幾つもあるにも関わらず、何か手放しで称賛する気になれないのはなぜだろう?監督の瀬田なつきは、黒沢清ふうの「心理ではなく、具体的な行動だけを役者に説明する」という演出法をとっているようだが、この方法が有効なのは、役者に、それと分かるような演技をするのを抑制させることとセットで行なわれた場合。本作のスズキジュンペイは、演じる役柄のその時々の言動の「意味」を、観客にそれと分かるように明瞭に表現しようという意識が強すぎるように感じる。他の作品を見ても、瀬田作品の出演者として「少女」がよく馴染むのは、瀬田自身が言うように(*)、演技の仕方が固まっておらず、その瞬間の感性で自然に演じるからだろう。『夕映え少女』の際は、物語の時代設定も相俟って、自然に演技に抑制が入るかたちにもなったのだろうが。(*→http://www.nobodymag.com/momo/2009/index.html)

加えて、全体的にどこか観念的な、いかにも学校で映画を勉強してきましたといった生硬さがまだ残っている印象が強い。吉永と少女が訪ねる不思議な部屋の、幾何学的でカラフルな四角形の連続する造形を見ても、入った瞬間にそこが異様な、非日常的な空間であることを印象づけるためにああした造形にしたのかもしれないが、少女がかつて暮らしていたはずのその部屋の、殺風景で息苦しく、生活の匂いの痕跡のようなものがまるで感じられないことには、違和感を覚えた。いや、そこまで計算尽でああした造形にしたのだ、少女の心の寂寥感を反映しているんだ、などといった反論がどこからか聞こえてくる気もするのだけど、要は瀬田自身が脚本段階で既に観念的な発想に傾きすぎていたせいで、あの視覚的な貧しさに至ったのだという気がして仕方がない。窓の外に巨大な魚が泳ぐ映像がはめ込まれていたり、吉永が、父親となった自分が子供と楽しそうにしているホームビデオに動揺し、テレビに暴力をはたらいたりする入れ子構造なども、いかにも観念的で、図式の提示という感がある。そういえば同棲相手の女の携帯電話に付けられたストラップはマトリョーシカだったが、映像内映像という入れ子構造に絡めたお遊びだろうか。

この部屋で、吉永と少女が音楽をかけて踊りまくるシーンの気恥ずかしさは、いかにも青臭く観念的なシチュエーションの上に、更に青臭い「感性の爆発」めいたシーンが展開することの気恥ずかしさだ。この、突然に文脈を断ち切るかのようなダンス・シーン。音楽とダンスという演出は、短篇『とどまるか、なくなるか』でも見られ、そちらでは自閉的空間に追い詰められた少女の感情の内破を表現するシーンとして充分に機能していたのだが、本作では、一緒に踊る吉永と少女の関係性が、そうした自閉的な密度に至ることなく唐突に踊り始めるので、何とも空虚なシーンと化してしまうのだ。その空虚さこそが狙われていたのだとかいう反論も可能なのかもしれないが、そう思って見ても、やはりただ気恥ずかしいだけのシーンであることに変わりはない気がする。

因みに、本作を観に行った際、一緒に瀬田の短篇作品を幾つか観る機会にも恵まれたのだが、彼女の演出には幾つかの反復される特徴がある。歯磨き中に、口に含んだ水を鏡へ吹きかける登場人物。停電等により、画面がしばらく真っ暗になり、音声だけが聞こえる演出。テレビへの暴行。音声がしばらく途切れること。――即ち、視覚的・聴覚的情報の切断。彷徨を共にしていた男女が、映像の投影されたスクリーンの前で戯れるシーン。間接的に表現される外国。――即ち、想像上の空間的移動。いずれも(上述した「音楽とダンス」も含めて)「いま、ここ」の文脈から、イメージを引き離そうとする衝動の表れであるように感じられる。そうした点が、ジャンプ・カットの使用なども含めて、どこかヌーヴェル・ヴァーグの香りを漂わせる。だがそれはもう「ヌーヴェル(新しい)」ものではないし、「日本でもヌーヴェル・ヴァーグっぽいことができる!」という発見のみならず、その更に先が見てみたい。

イメージの瑞々しさでは最たるものである『あとのまつり』にしても、カット同士の繋ぎがジャンプしまくるのは「記憶の喪失」というテーマに沿ったものであるにしても、個々のショットがそのジャンプに耐えて瞬間的な強度を保つほどのものだとは、ちょっと認め難い。完成度では『とどまるか なくなるか』や『港の話』の方が優っているが、世界観の突き抜け方では『あとのまつり』、と、どの作品も一長一短といった観がある。やや不安の残る面はあるのだが、次回作に注目すべき監督の一人ではある。

(評価:★3)

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