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[コメント] ある天文学者の恋文(2016/伊)

星からの光。小舟で向かう島。恋人との年齢差。その彼には家庭が。「カミカゼ」行為によって垣間見る向こう側。そして、時空間的な隔たりの向こうから届くビデオメッセージ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







エイミーは、父譲りのスピード好きに任せて自動車を飛ばしたせいで、同乗していた父を事故死させた過去がある。危険なスタント(エドから「カミカゼ」と称される)の仕事によって、父が去ってしまった向こう側、彼岸への一瞬の越境を繰り返しているかのような彼女は、大学で学ぶ天文学について、過去に星が発した光を介して、すでに存在していないものについて知ることだと、論文で謳う。学術論文としては文学的に過ぎるように思うのだが、それはともかく、彼女にとってスタントも天文学も、無に帰した存在と触れ合うことなのだ。

エドがエイミーに対して「父親じみた説教かもしれないが」と語りかける言葉からしても、彼が父親代わりになっていることが窺え、いわば代理的、間接的な近親相姦めいた関係性。天文学と父という、エイミーの生活の二本柱は、エドにおいて一つになっている。

コメント欄に挙げたすべては「距離」というテーマに沿うものだが、映画の冒頭、画面にエイミーとエドが現れる前からなにやらペチョペチョブチュブチュと音が聞こえ、ああ、あのパターンかと思ったら案の定、二人が抱き合って互いの体を貪り合っている。あまり品のある演出ではなく、出だしから気がそがれるが、「距離」というテーマから言えば、まず最初に距離ゼロから開始していたわけだ。真の距離ゼロは、音だけがペチョペチョブチュブチュいっている段階であり、二人が「被写体」として現れた時点ですでに距離が生じ始めている。映像とは対象との距離的関係そのものなのだ。そしてエドは、レンズの向こう側からのビデオメッセージを通して、エイミーとの埋められない距離をゼロのまま留めようと試みるが、当然それは挫折する。星の光もいつかは、その消滅によって断ち切られる一瞬前の光を最後に、届かなくなるのと同じく。

だがそれは、過去からの解放でもある。エイミーは、スタントの仕事の中で、コードに首をくくられて吊られ、苦しみのあまり仕事を拒むが、コードで死の苦悶を味わわされるというのは示唆的。エド自身、しつこい亡霊のように付きまといたくないから、君がそう望むならメッセージを断ち切ってくれとエイミーに求めていた。最後のビデオメッセージで後ろ向きに映っていたのも、もう、背中を向けて彼岸へ去るべき時期だと悟ったからだろう。エドの構築した、永遠にエイミーと生きるためのメッセージ送信システムは、友人たちの手を借りて実現させたもの。つまり、エイミーと共に永遠に生きるとは、エドがエドとして残存することによってではなく、エドとエイミーのあいだ、周りに存在する世界との絆を結ぶことによって実現することになる。

エイミーは、エドに過去のトラウマを蒸し返されたことに激高し、ビデオメッセージの入ったディスクをいったんは暖炉に放り込み、残りのメッセージの受け取りを拒むが、それを悔いて、なんとかメッセージが再び届くよう奮闘し、破損したデータからビデオメッセージを復活させようとする。結果、ビデオカメラに残された、編集前のエドの映像を目にし、ビデオメッセージでは落ち着いて語りかけていた彼の苦悩を知る。映像の激しいノイズはそのままエドの苦悶、エイミーとの関係の崩壊のように見える。そうした、編集前で、ノイズ混じりの不完全な映像だからこそ、より感情に訴えかける。エイミーが、彫刻作品のための型どりの仕事をしていた際、息苦しさと哀しみのせいで動いてしまい、結果、その不完全さが、心に訴えかける作品として結実したのと同じように。

強盗によって部屋を荒らされたエイミーは、エドの残したメモ書きの、破りとられたページの下の紙に筆圧が残っていることに気づいて、そこからメッセージ再開のパスワードを見つけるが、強盗に荒らされるのも、ひょっとしてエドが仕掛けたシステムの働きではないかと思えてしまう。それほどに、ややご都合主義的な感じを受けてしまうのだ。

それに、並行宇宙の10人の自分、というSF的な要素を加味しないと不自然なくらいに、エドが予言的なメッセージを送ってくるシーンも幾つかある。試験で出される課題を予言するというのは、エドが同僚の教授に依頼していたのかもしれないが、もしそうだとしたら、私的な恋愛関係に周りの人間を巻き込み過ぎだろう。それに、エドの死後、エイミーのメールに対してエドらしい返信をしていたのは誰なのか。不倫相手との緊密な関係性がなければ成立しなさそうな「エドらしさ」を他人に装わせるというのはどういうシステムなのか。こうした、一見すると緻密な構成のようでいて、けっこう目立つ綻びが各所に見えるというのが、トルナトーレ作品によくある瑕疵。

ただ、強盗というのは一つの通過儀礼というか、過ちに対する代償のようなものでもある。この強盗に遭ったことで、エドから贈られた新品のノートパソコンが無くなる。つまり、エドからの新しい贈り物が、エイミーのこれからの人生の中に残り続けることはなくなるのだ。エイミーはまたも、動作の鈍いノートパソコンと格闘、バンバン叩きながら使う羽目になる。(気持ちはわかるが叩き過ぎだろう。ダンス公演中にスマホをマナーモードにしていなかったり、どうにもこのエイミーは無神経で雑な性格。公演中にメールのやりとりをするのも、暗闇の中で画面が光るから、後ろの席の人には迷惑なんだよな。こういう女とは付き合いたくない)

システム復活後、エドから指示のあった図書館で、古い天文学の書物を前にしているエイミーに、エドからのビデオメッセージが届くが、どこかズレた内容。その後、男友達二人と食事をしているエイミーにまたもエドからメッセージが届くが、「君は今、図書館にいて……」などと話すので、エイミーは笑ってしまう。カフェの窓越しにその様子を見た男は「彼女を笑顔にする男は幸せだな」と呟くが、このシーンはまた、エドが構築したシステム=星雲の崩壊の予兆のようでもある。

カメラに残されたエドのビデオメッセージの復活を助けた青年が最後、新たにエイミーと人生の歩みを共にしそうな雰囲気を感じさせるところでこの映画は終幕となる。つまり、カフェの窓=画面越しに彼女の笑顔を見ていた青年が、今度は自分が彼女を笑顔にする男になろうとするわけだ。エイミーは彼に、あとで必ず連絡すると約束し、二人は別れる。距離ゼロから永遠の距離へと向かうエイミーとエドの物語のあとに、今度は距離ゼロへと向かう物語が新たに始まることを予感させる。エドは、年齢からしても、エイミーの先を進んで、永遠の彼方へ去ることを宿命づけられていた。つまり未来-過去という時間軸に予め立っていたわけだが、今度の青年はエイミーと同年齢であり、眼前にある現在を感じさせる。エイミーの、スピードを好んだ父というのも、エイミーに制御できない速度によって拉し去られてしまう存在として、エドと重なる。

こう論じていくと、見事な物語の閉じ方のようにも思えてくるが、実際のところは、なんだか拍子抜けをする、なんだか妙に虚しい終幕に見えてしまう。この青年は、スタントの現場や、メッセージの復活といった場面でエイミーをサポートしてはいるが、なにか人生の支えになるような面を見せていたとも思えない。思えば、エドとエイミーの交わす会話も、楽し気にウィットを示し合ってはいるが、台詞の量の割には、互いの感情の根幹に触れるような言葉はあまりに乏しく、全体的に理詰めで作られた映画という印象。

(評価:★3)

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