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[コメント] アイアムアヒーロー(2015/日)

ゾンビ映画としての遠近法(空間的、社会的)が未到達に終わったのが惜しまれる。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







恋人が主人公を邪険に扱っているので、彼女がZQN化しても、端から脅威だった女がその延長線上でホントにバケモノ化したという話になってしまい、恋人が喪われる哀しみといった感情を何ら惹起しない。

ZQNという呼び名そのものがDQNという差別的スラングを連想させるが、社会で一応はレールに乗れた連中が、他人との関係性のなかで社会生活を営んでいたが為に一斉に感染、ZQN化し、生前の暮らしを惰性的に反復するような単純行動を為す能無しへと堕す。が、逆転してニートや引きこもりが「人間」社会の構成員の地位を占めるという革命性が、ゾンビ物らしい批評性を獲得しえておらず、生煮え感が否めない。ショッピングモールというゾンビ定番の舞台での欲望剥き出し権力闘争が既視感ばかりで退屈なのもそれが一因。

モールのコミュニティに生活感が足りず、メンバーらの社会的な背景も見えない。長澤まさみらのそれは物語上の駒としての役割感、フィクション性が強すぎる。社会の底辺から思いがけず這い上がってきた(のだろう、たぶん、彼・彼女らは)連中が結局は再び、モールの屋上から見下ろされる「底辺」からZQNが這い上がるという再下克上に遭って壊滅するさまにも、崩壊した日常から再構築された新たな日常さえもやはり崩壊するという劇的なものが感じられない。単に、ゾンビ物の定番的プロットに乗っかってる、つまりはレールに乗って進んで行っているだけという、しょうもなさが漂う。

クライマックスの、大量ZQNと男一匹散弾銃の対決も、ZQNらがどれくらいの距離まで迫っていて、まだ残り何匹いるのか、残弾は何発か、といった、空間的、数量的な追いつめられ感が充分に演出されておらず、退屈すぎる。同監督作の『図書館戦争 THE LAST MISSION』では、敵の集団が迫り来る緊迫感を、彼らが規則正しく並べる夥しい数の楯とそれを床に打ちつけながら行進する音によって重厚に演出していたのだが(といって、この映画、土屋太鳳目当てに観たのにラストで一瞬出てくるだけで騙された感が半端なかったのだが)。

このシーンで主人公はひたすら狙っては撃つという単調な動作を強いられており、それ自体がいつ終わるとも知れない苦行であるから、そのアクションの単調さは別に構わない。その単純作業を必死で繰り返すことの地獄さがもっと描けたはずなのだ。

それに、相手がZQNとはいえ、それまで羊のようにおとなしかった平凡な男が大量殺戮を行なうわけで、その狂気や悲哀といったものを感じたいところ。が、迫り来るZQNさんたちの生前の人間性が感じられる描写がこのシーンでほぼ皆無なので、ワラワラ湧いてくる無脳人形どもを狙っては撃つだけの退屈極まる光景でしかない。お婆さんと孫が手をつなぎながら何か優しげな言葉を繰り返しつつ迫りくるといった、残酷さと情感のない交ぜになった表現などあれば、色んな意味でウワーッと叫びたくなるシーンとして心に刻まれたかもしれんのに。

また全体として、マンガ家アシスタントという立場が、ニートや引きこもりとまではいかなくとも社会で真っ当に働いているというほどには達していないという自虐性が、主人公のキャラクター造形に大して寄与していないのもマイナス。結局、ゾンビ物をただのスペクタクルとして考えてしまっている底の浅さが目立つ。

序盤で主人公が、すでに殺戮の場と化していた仕事場から逃げ出し、街中での大惨事を走り回るシーンは、ZQNと普通の人間が入り混じって誰がどれだか分からぬカオス状態や、長めのカットでZQNによる人間捕獲、捕食、車の衝突などの地獄絵図を見せていきつつも、逃げる主人公を追うカメラはそれらを脇目にどんどん移動していく。遠近の利いた空間性で社会の崩壊を見せていくこのシーンが、この映画の最高潮。

だがそこからは低空飛行。女子高生との出逢いと別れと半分再会半分再別離のドラマも、彼女から「お守り」として渡されたiPodが特に情緒の醸成に大して貢献していない不手際も含めて、この辺から退屈さが始まってしまったなと。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] Sigenoriyuki[*]

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