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[コメント] マン・オブ・スティール(2013/米)

予告篇に漲る異端者の孤独と悲哀に期待したが、ほぼ予告で出尽くしていた観。一方、種族存続という「崇高」な使命を自ら担う敵方の哀しみをも抱え込む面も。一瞬で長距離を移動するアクションの速度と強度に自然と拳が固くなる。3Dで観る価値あり。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







スーパーマン リターンズ』の内容は殆ど失念しているが、自分が書いたレビューを再読すると、「スーパーマンに力で匹敵する敵の不在が不満」だったらしい。そこは完全に補われているし、それがアクションシーンに活かされている。体当たりや打撃攻撃で、町一つ分程度の距離なら一瞬で突っ切ってしまうアクションは、彼らの超人性を十二分に示してくれる。アクションの空間的・力学的スケールが段違い。音速を超えた運動によるソニックブームがボン!と重く響くことで、単なる移動ですら、文字通り「衝撃」的であることが実感させられる。

単にアクションのスケールで言えば、『マトリックス』シリーズにも相当程度見られたが、『マン・オブ・スティール』のそれは、素朴な一般ピープルの生活空間に暴力的に介入することによる衝撃性と現実味が加えられている。『ドラゴンボール』での、サイヤ人の襲来を受けた地球人の姿を想起させる。アクション自体、『マトリックス』で既に『ドラゴンボール』的だったが、生活空間が介在することで、距離感もより把握しやすい。軍隊の兵器と闘わせることで、力の格差をきちんと見せている所も、ツボが分かってくれている。

終盤の格闘シーンは、たった二人の肉弾戦が高層ビル群を破壊していく様に目を見張る。微細なCG表現が利いている。無人の仮想空間に過ぎない『マトリックス』の高層ビル群とは全然違う迫力。巨大ロボットでもモンスターでもない、人体サイズの人体が、スケールのデカい破壊を為していくさまには、何か危ない魅力がある。9.11以後に、都会の高層ビルをよくもあんなにグチャグチャにできるもんだな、と呆れるが、その危うさがまた手に汗握る迫力をいや増す。

惜しいのは、脚本が、観客を充分に納得させるほどに頭を使っていないこと。例えば、スーパーマンが、アメリカに対して地球の裏側に廻って、テラフォーメーション装置と格闘するシーン。機械の触手という無感情無意志なものと一人で必死に取っ組み合う様に若干醒めた気分にさせられてしまうが、問題は闘いの解決法。いや、結局捕まっちゃった彼がそのまま装置の中心に飛び込んで、地球の反対側に帰ってくるという力業は、スーパーマン物としてはアリなんだけど、ここはほら、スーパーマンの身に備わった体内エネルギーを、命の危険を冒して放出するとか……、そういった漢の浪漫が必要でしょう。なんだか、機械に揉みくちゃにされたスーパーマンがそのままの流れで、思いつきの攻撃を試みたら成功というのは、あまりにダラッとした脚本。

スーパーマン=クラーク・ケントの少年期の回想で、周りの教師やクラスメートの体内を透視してしまい恐怖するシーンがある。外見は地球人と変わらない彼だが、その目には地球人が異様な存在に見えている……、つまりは彼自身が、地球にあっては異様な存在であることを痛感させる。こういったシーンをもっと小まめに挿んでくれないと。青年となった彼が漁船で働いているシーンではそうした孤立感が殆ど見えないし、少年期に、転落したバスを自力で押し上げて皆を救うシーンも、救った苛めっ子の親から救世主視されるといった肯定的なものだけでなく、例えば、仲良くなりかけていた女の子に畏れられ、避けられるといった悲劇も描かれていないとダメだろう。

その結果、クラークが自分の正体を「孤独の要塞」で知るシーンでの、誰もいない自然の中で自分の力を初めて、思い切り解放する姿に、観客の方で共感するのがどうにも困難。いつの間にか髭を剃った彼(あの宇宙船に剃刀と洗面所があったのか?)が無邪気に飛び回る光景は、つい先程までのシリアスな彼と齟齬がありすぎ、急に軽薄な男に変わったような印象を受け、冷めて見てしまう。冒頭の、惑星クリプトンの崩壊と、その前後のドラマは、クラークが自らの出身を知るシーンで初めて観客にも示されるという形のほうが適切だっただろう。大抵の観客は勿論クラークの正体を分かった上で観ているわけだが、それでも、クラークが自らの能力の理由を知らずに苦悩する宙ぶらりんの感覚を幾らか共有したいところ。

全篇に亘り、殆どの出演者が眉間に皺を寄せている印象。つまり、感情表現やドラマ性の幅に乏しい。どうせ眉間に皺を寄せるのなら、スーパーマンであることの哀しみにもっと寄り添ってほしい。ただ、ゾッド将軍に止めを刺すシーンでのスーパーマンの悲痛な咆哮は、『ドラゴン怒りの鉄拳』のブルース・リーのような、拳の哀しみの沸点超えを感じさせる。

このゾッドは、ヘルメットを被っていないと、少年期のスーパーマンのように知覚の過多で苦しむ筈なのだが、スーパーマンのアドバイスに従って意識を集中していたのか、或いは種族を滅ぼされた怒りでスーパーマンに対して「集中」していたのか、問題なく闘っている。この辺がまた人間ドラマとして弱い所で、本当なら、少年期のクラーク自身と同じように苦しむゾッドに対するスーパーマンの同情だとか、かつて、養母から「私の声に集中して」とアドバイスされて苦しみから脱したクラークが、彼自身に対する憎悪によって初めて地球の環境に適応したゾッドを目の当たりにする悲痛だとか、そうしたものがもっと見えてきて然るべき。

それと、CGで描いた空中戦に、例の、急速なズーミングによる手持ち感の演出を施すのはやめてほしい。せめて、何か注目すべき被写体の登場或いは被写体の変化があって、そこに寄っていくのならまだしも、単にリアルっぽくしたいが為にズームしているわざとらしさが鼻について仕方ない。このところ色々な映画に頻出するこのズーム手法、臨場感など微塵も演出しておらず、作品にバカっぽさを添えることにしかなっていないことにいい加減気づけと、声を大にして言いたい。もうウンザリ。

(評価:★3)

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